浅田彰の投稿 (2000)を読む ー A LEFT WITHIN THE PLACE OF NOTHINGNESS

A LEFT WITHIN THE PLACE OF NOTHINGNESS
 
 
▼日本左翼が定位する内部的な無の場所、というような意味をもつタイトルのこの論文は、当時読んだときは西田哲学を呼び出すような衒学的な感じがして嫌だったが、それは私がまだ社会民主主義の一定の影響力があるヨーロッパにいたときに読んだからもしれない。▼2016年の今、これを読み直すと、当時の浅田氏は、日本において、というか日本だけ、社会民主主義の政党が消滅してしまうかもしれないということに相当な危機感をもっていたと読み取れる。▼たしかに民主党が与党となる政権交代が実現したことは実現したが、だがそのことよりも、将来もし社会党が事実上消滅することになれば、日本左翼は議会における抵抗の決定的拠点を失い、なにもない同然の「無」に等しい場所に立たされるだろうというわけである。▼確かに、ファシズム前夜ともいわれる、今日における安倍自民党の最悪の事態を彼なりに考えていたのではないか。
▼2000年に、浅田彰AKIRA ASADAが「ニューレフト・レビュー」誌に寄稿した論文のために呈示された、いわば日本左翼年表。思想史的に、文学史的に、日本左翼を整理している(ヨーロッパでは哲学者がもつ知識人的位置を日本では文学者がもっている)。▼ここには、柄谷から受けた影響によると考えられるが、理念的構成を重視する思想家達の名前が書きとめられている。この年表は日本共産党創立の年1922年から始まるのはその理由からだ。浅田氏はその約50年後に、日本赤軍と石油危機の後の73年に、自らのポスト構造主義しての思想的位置づけを行う。70年代が重要であるという認識によると思われる。▼68年パリ革命の運動は、理念的構成を脱構築し経験知を重んじた単独性の思想に伴われた。ドゥルーズ&ガタリ「アンチオイデプス」「ミルプラトー」、フーコ「監獄の誕生」といった重要な仕事は68年以降に出た。▼他方で、70年代ポストモダニズムの批評精神は、80年代の消費主義によって骨抜きになり次第に消滅に向かった。グローバル資本主義が本格化する90年代から、その対抗として国家主義民族主義反知性主義の側の復活された一見理念的構成の言説が広まることになった。ポストコロニアリズムの思想が十分な成果を出す前に、ポスト社会主義の思想?として、ポストモダニズムのモダニズム化という奇妙な現象が出てくるだけでなく、教科書問題や靖国問題などの、イラク戦争以降に顕著となる、戦前の国体的権威主義もそのままの形で復活してくることになった。▼浅田氏の日本左翼年表は一応2000年までであるが、2016年の現在を考えると、「日本左翼が定位する内部的な無の場所」は、「世界史の構造」「帝国の構造」の言説(反動的な理論的前衛)によって、「破綻しつくした戦後思想、その無の可能性の中心」となってしまったかのようにみえる。しかしオキュパイ運動以降、白紙の本を一行一行書くように、市民たち一人ひとりが自ら政治を語るチャンスが来た時代はもう後戻りできないようにおもわれる。