アイルランド人がいかにプルーストを読むのかという問題、さらにその読みの意味を日本人<として>ならばどう考えることになるのかという問題。そうして、読みことのうちに差異を読むことが含まれるというか、この問題

西欧の文学を外国人の頭で読んだときと日本人の頭で考えるときのこの二つの間の距離について考えることが大切といわれますよね、この差異の問題については、自分にはいつまでもはっきりと書けるようにはならないと思うのですが。▼とにかく、この距離の問題については、ヨーロッパ人のアイルランド人だって、かれらがプルースト失われた時を求めて」をフランス人<として>読んだときにでてきます。▼アイルランド人がいかにプルーストを読むのかという問題、さらにその読みの意味を日本人<として>ならばどう考えることになるのかという問題。そうして、読みことのうちに差異を読むことが含まれるというか、この問題。▼私のプルーストの読みはドゥルーズの解釈に負うのですが、それとは別に、最近あらたに、第4編’ソドムとゴモラ’に、(デュラス「インディアソング」のなかで描かれていたような)、眠る人の遺跡のような姿が表現されている描写に注目しているところです。▼流離う死者の魂がいかに普遍的な理念に定位することによって消滅していくのか?それをいかに読み解くのか?アリストテレスやトマスアクナスに連なる哲学テーマが文学的に饒舌に表現されていることに気がつきました。それは、今日、国家神道復活の政治問題が私にこのような読みを強いてくるのかもしれませんけれど。▼最後に書いておきたいことですが、あえてバイオグラフィーとしての大正 (1912-26)をかんがえると、その生誕は、「失われたときをもとめて」(1913-27)の刊行と殆ど重なります。第一次世界大戦の終わりであり第二次世界大戦の始まりであるこのいわゆる戦間期は、数えられる無限と数えられない無限の間のように、(時代と時代を繋ぐような)連続的なものが存在しないともいえないし存在するともいえないような思考の不確定な空白が横たわっているのでしょうか・・・