浅田彰「構造と力」(1983)を読む

浅田彰「構造と力」(1983)を読む

今日、本屋に立ち寄ったら、浅田彰「構造と力」をみつけた。54刷を数えるとは、読まれ続けているんだな、素直にすごいことだとおもった。「構造と力」は当時どのように読まれただろうか、殆ど同時代だったので、よく覚えているが、必ずしも称賛の声ばかりではなかった。旧左翼のマルクス主義者からは厳しい非難があつまった。表層の高度資本主義の消費の問題をみているだけで、根本にあるマルクスの貧困の問題を切り捨てたというのだ。しかし柄谷「トランスクリティーク」にみられたマルクスへのこだわりをこの「構造と力」に読み取ることができる。また、ポスト構造主義の仕事を紹介した「構造と力」は、‘記号論を超えて‘というその副題が示すように、山口「文化と両義性」の限界から現れたとみなされていたが、本当にそうだったのか?本を開いて中の図をみると、ラカン精神分析トポロジー概念で理論武装した、浅田の貨幣論の再構成に、文化人類学の神話的文化論的語りが不可欠なのである。2016年の現在から読むと、切り捨てられたのは、’遅れた‘アジアへの共感ではなかっただろうかなどとおもう。ところでアジアへの共感とはなにか?アジアへの共感は、ヨーロッパ民主主義と普遍主義の理念的構成の無理の認識と関係している。歴史的にいうと、ヨーロッパ民主主義・普遍主義は、ヨーロッパの非ヨーロッパを排除した成り立ちー植民地主義―に不可避的に規定されている。だから、アジアの植民地主義の問題を解決するために、再び、アジアを植民地化したヨーロッパ民主主義・普遍主義の理念的構成に依拠することが倫理的に不可能である。例えば竹内好は「方法としてのアジア」という開かれた概念から、植民地化されたアジアから、ヨーロッパ民主主義・普遍主義をより発展させる倫理的問題をみたのだった。説明する必要もないが、その可能性の一つがマルクス主義と考えられたてきた。だが、日本マルクス主義者もまた、この道しかないとばかりに教えてくる掟、利潤率低下の法則に絡みとられて、資本主義にあってはどんないかなる改革も挫折してしまうはずだと考える結果、(必ず破綻するにきまっている)どんないかなる議会主義的改革よりも、崩壊の果てに起きると予言されているプロレタリアート階級の蜂起に託すのである。日本でピケティが流行にしかならないのはそのためである。「日比谷公園焼き討ち事件」のような都市大衆の暴動のかわりに、理論的前衛が指導する組織的階級の革命のユートピアを新しく書き込んだのはスターリン主義であったが、このような暴力革命の時代はたしかに終わった。だがその暴力革命論は消滅しきったのか。今日それは、日本知識人の「帝国」への共感にとって代わられているのではないだろうか?ふたたび、浅田氏にもどるとその立場はどこか。ポスト浅田の論客たちは排他的な愛国主義者的言説に絡みとられているのをみると、いかに浅田の側からデビューした日本ポスト構造主義が浅い理解であったかがバレバレだ。浅田はこういうナショナリズムとは一線を画している。ただし正直、アジアへの共感のことは私にはわからない。2000年の「ニューレフトレビュー」誌の寄稿文(’日本左翼が定位する無の場所‘)で、日本では改革派は必ず挫折するというテーゼを大変残念がっていたこの発言から、教条主義マルクス主義ではなく、民主主義の他の道があるという開かれた方向性をみているのだろうとわたしは読んだのだけれど