廣松渉「相対性理論の哲学」(1986)を読む

廣松渉相対性理論の哲学」(1986)を読む

▼学生時代の労働法ゼミにおける私の眼は、マルクス経済学という俗物の眼から隠され、眩暈が起きるような死語化した漢語に蔽われている祭壇のような神聖な本に向けられていました。嗚呼、廣松渉とはだれだったのでしょうか?この人によって新しく言われたことは何だったのでしょうか?かれの前にはどんなことが言われていたのでしょうか?廣松といえば、ほかならない、「新しい認識論、新しい存在論!」でした。彼の本は、何ゆえに、戦後民主主義の言説が60年代・70年代の運動によって批判されなければならなかったのかが書いてあるはずでした。タブーであった「近代の超克」の意義も「文化大革命」の意義も、戦後民主主義のスローガン的な’トータルな認識’では読み解けない広がりと深さを感じた読者が廣松を読んだのです。
▼日本左翼思想家の中には、「資本論」の読みへのこだわりを示した者たちが大勢いますが、廣松もその一人でした。ドル本位制の終焉後の石油ショックのハイパー・インフレーションを経験したあとの80年代のときは、戦後民主主義都留重人が言う通りに...マルクス資本論」と近代経済学と互いに補う形で読んだという学生たちがいた遠い記憶が伝説のようにありました。が、この時代はもはや近代経済学がもっぱら主で、(現象を説明できない)「資本論」を補完するようになっていたと思います。19世紀に書かれた「資本論」の有効性は20世紀後半に消滅したのは当然でした。が、日本知識人の「資本論」へのこだわりは消滅しなかったのです。「資本論」をいかに復興するか?それは哲学の領域においてならば可能ではないか?そういう意味で、廣松の「相対性理論の哲学」(1986)が登場したときは、それは、「資本論の哲学」でなければならなかったのです。このとき、「隠喩としての建築」(1979)のようなものが既にあったが、森嶋道夫が「資本論」を数学的体系に翻訳し尽くしたように、廣松はそれを物理学の言語に翻訳したのでした。中世では「日本書記」の暗号解読に朱子学を虎の巻にしたといわれますが、「相対性理論の哲学」は、死語化した漢語の行進を読み解く為にテンソル概念がアンチョコとなったというわけです。
▼70年代の知を体現した廣松渉の王座も、文学界から現れた柄谷行人氏の登場で、すっかりゲームの規則は変わってしまったようにみえました。常のこととして言葉では反駁できない権威を倒すようなやり方で、柄谷氏は対談の場で廣松にはむかったのでした。廣松渉の後に何が語られるようになるのでしょうか?80年代からは、反復しえない一回限りの出来事について考えられはじめたのではないかとおもうのです。この言説は、事件性の概念とよぶべきものを通じてはじめて現れましたが、そうして、廣松的な意味のトータルな哲学の地平に穴があけられていくことになったことは、天安門事件(1989)が起きたことと無関係ではないかもしれません。自発的にいかにアジアを語るのか、このことが倫理的な問題となってきたと思うのです。
子安宣邦氏は「「アジア」はどう語られてきたかー近代日本のオリエンタリズム」(2003)のあとがきで、こう警告していたはずでした。「戦後私たちは「アジア問題」について問題の重さから口を閉ざしがちであった。しかしその沈黙が日本の国家としての無責任な歴史問題の素通りを許しているのではないか。(・・・)だが自己検証をふまえない「アジア問題」への介入は、過ちの繰り返しとなろう。いま日本から「アジアの新時代」が立ち上げられているが、それはすでに1940年代に私たちが体験したことなのである。」。このなかで指摘されている「自己検証をふまえない「アジア問題」への介入」の例として、柄谷行人氏の発言があるとおもいます。柄谷氏は、廣松の「近代の超克」論」を擁護する形でこう述べることになります。「京都学派は「近代の超克」を唱えた。その「近代」の中には、資本主義や国民国家だけでなく、マルクス主義も入る。廣松も「近代の超克」を目指した。しかし、彼にとって、マルクス主義こそ「近代の超克」を実現するものであり、その点で、京都学派を批判した。だが、「近代の超克」という志向においては、同じである。実際、廣松の「マルクス主義」では、近代哲学・近代科学の「超克」に焦点があてられている。」(2007)。
▼しかしこれでは、グローバル資本主義の時代に、オキュパイ運動から始まる、小さな人間達が大きな人間にたいして自発的に抗議しはじめたとき、「マルクス主義」を<誰が>再び語るのかという問題を柄谷氏は見失ってはいないでしょうか?ここで、マルクス主義の全部がゼロになったと言おうとしているのではありません。私はアイルランドにいる間、搾取する国家と搾取される国家との関係に、マルクス主義の概念を適用する可能性について常に考えてきました。しかしその場合でも、いかに、民主主義の白紙の本を書く、というか、生きるかという人間の経験のことが根本にあります。「近代の超克」の場合でも同じことだとおもうのです。2000年代の柄谷氏は、1980年代に自分が打倒した廣松渉というひび割れた思弁哲学の仮面をかぶり、同一性の反復の儀式を舞うとき、しかし21世紀にだれがそれを祀るのだろうかということですね。舞うのは結構、だが舞うにしても、廣松渉が構築してみせた物象論において展開した批判精神が生かされているのかと問わざるを得ません。

 
本多 敬さんの写真