横断的読み - 子安宣邦「江戸思想史講義」(1998)、ネグリ&ハードの「帝国」(2000)、「コモンウエルズ」(2009)、柄谷行人「世界史の構造」「帝国の構造」

「江戸思想史講義」(1998)の子安宣邦氏は序文(2010)で、「方法としてのアジア」が西欧近代とその世界史的展開への、西欧の外部における批判的視座の確保であると語った。▼ところで、カフカ的に響く、脱中心化・脱領土化のコンセプトは、「ミル・プラトー」(1980)のドゥルーズガタリを読み解く鍵である。ここから、ネグリ&ハードの「帝国」(2000)はアメリカの帝国として脱中心化・脱領土化した誕生を分析しはじめ、「コモンウエルズ」(2009)に至って、同様の方向性をもった中国の官僚資本主義の脱中心化・脱領土化を分析することになった。▼そしてネグリの「マルチチュード」の労働運動とアナーキズムの方向とは全く反対の方向から、柄谷行人「世界史の構造」「帝国の構造」は帝国たち(EUヨーロッパ、アメリカ、ロシア、中国)が文化的に奏でる弦楽四重奏曲ーそこで世界資本主義経済のケーキはナイフで四つに分割せよーを呈示してきた。そうしてこのときまさに、帝国の<一>的多様体の輝くこの言説に、「方法としてのアジア」の多元主義が、包摂されてしまうことになってしまったのである。▼...ネグリ&ハードが「帝国」の序文でいった「近代の黄昏」とは、欺瞞的に、かくも憂鬱な終焉のことと予測できただろうか?いやしかし、「近代の黄昏」とは終焉だけでなく、と同時に、始まりも意味する言葉ではないか。巻き込まれていくばかりではないだろう。思考することのできない夜の海にこそ、孤独の力ー彫刻のような姿の考える人間達の影があらわれるのではないだろうか。▼たしかに、「大正論」では秋水の「直接行動」論の観念性と大杉の白紙の本を書く倫理性が検討されることで新しくふたたび小田実の市民の生き方を発見することになったではないか。そして、2016年四月から「方法としての江戸」はいかに、19世紀・20世紀に後退しようとする帝国の近代を巻き返していくことができるのか、である。

 

▼「私たちの基本的な前提はこうなる。すなわち、主権が新たな形態をとるようになったということ、しかも、この新たな形態は、単一の支配論理のもとに統合された一連の国家的(ナショナル)かつ超国家的(スプラナショナル)な組織体からなるということ、これである。この新しいグローバルな主権形態こそ、私たちが〈帝国〉と呼ぶものにほかならない。〔…〕帝国主義とは対照的に、〈帝国〉は権力の領土上の中心を打ち立てることもなければ、固定した境界や障壁にも依拠しない。〈帝国〉とは、脱中心的で脱領土的な支配装置なのであり、これは、そのたえず拡大しつづける開かれた境界の内部に、グローバルな領域全体を漸進的に組み込んでいくのである。〔…〕じっさいいかなる国民国家も、今日、帝国主義的プロジェクトの中心を形成することはできないのであって、合衆国もまた中心とはなりえないのだ。帝国主義の時代は終わった。」— ネグリ、ハート、『〈帝国>』