サルトルとハンナ・アーレント

詩なんかはそうだけれど、だれかが言っていたように、わかんないことからスタートするわけだね。そしてわからないところに到達することになる。ふたたびそこからスタートしてみるときの、差異を育てることの喜びを何と形容したらいいだろうかね。わからないようにみえるだけで、そこに、その数は表現する人によってまちまちだけれど、たとえば百ぐらいの基底性・方向性をもった複雑な状態があるんだね。ところが、どこから来たのか、どこへ行くのかかわからないから全然読まない人というのは、(いまの大勢だとしたらこの私はジャコメッティの彫刻のように不安に孤独になるのだけれど)、常にこれしかないとばかりに意味を指示してくる絶対的な一者である<他>に依存するから、過剰に無関心になり沈黙し暴力をもって自らを超越化する<サディズム>か、逆に、過剰に共感をもとめて言葉と視線をもって自身を超越化する<マゾヒズム>に陥るかもしれない。多分、「存在と無」でサルトルが言及していた全体化はこういうことだったのじゃないかな。大衆の内部から内部に即してそんな<他>に依存することは、ハンナ・アーレントがいう「起源」への依存のことでもある。

 

本多 敬さんの写真