「論語塾」で原初的テクストを読む面白さー 読むことができる、且つ、読むことができない、そうして、読むこと自体の不可能性に出会うことが孕む倫理的意味を自身に向かって問います。

論語』憲問篇に諸国を巡遊して忙しい孔子を批判する微生畝の言葉とそれに答える孔子の言葉があります。「微生畝(びせいほ)、孔子に謂いて曰く、丘、何をか為す。是れ栖栖(せいせい)たる者か。乃ち佞(ねい)を為すこと無からんや。孔子の曰く、敢て佞を為すに非ざるなり。固なるを疾(にく)めばなり。」子安先生がこれを仁斎の理解にしたがって現代語訳なさっています。「微生畝が孔子に向かっていった。孔丘よ、あなたは何を忙しそうにしているのか。世に媚びて口上手に振る舞っているのではないか。孔子は答えていった。私はあえて世に媚びて人の悦ぶことをいい歩いているわけではありません。ただ世を離れて固く独りを守るような態度をにくんでいるからです」。「論語塾」の子安先生のご解説はブログで読めます(「世に媚びてはいない、独善家をにくむからだ」)。 ここではこの私がどうしてこの孔子の言葉に感銘を受けたのかを書いておこうと思います。まず、「論語」のような原初的テクストの読みの困難さですね。その読みは、仁斎の朱子解釈に対する注釈的脱構築を前提にします。過去の仁斎の注釈だけではありません。現在生きている他者の問題に直面せざるを得ません。必死に一生懸命頑張れば「論語」も何とか読めるかもしれません。が、それは、「論語」を他者の現前において読むという行為とは全然別の事柄です。自分一人での読みならば自分の穴が埋まることで自分が救われるけれど、そうして孤高の高みで得た真理から、同時に、共同体(新儒教みたいな政治的な教説に絡みとられた人びと)は救われるのか?いかにも偉そうなことを言っていながら、読めないのではないか?読むことができる、且つ、読むことができない、そうして、読むこと自体の不可能性に出会うことが孕む倫理的意味を自身に向かって問います。孔子と微生畝の問答を読んで人々との未来の関係のことを考えたわけです。


Weisheng Mu said to Confucius, Qiu, why are you always rushing around? Are you trying to talk yourself into favour?
 Confucius replied, I would not venture to talk myself into favour. I'm distressed by so much obstinacy.
 ▼Comment ; the first thing to say about Analects of Confucius is that it is, in an important sense, unreadable. There is no universal algorithm (interpretation) for deciding whether or not my reading is going to stop. The validity of an algorithm (an interpretation) must always be established by external means. This is exactly what Confucius means in replying to Weisheng Mu.
 (takashihonda)

 

 
本多 敬さんの写真

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