柄谷行人「憲法の無意識」を読む

柄谷行人憲法の無意識」を読む

活字を読むと咳が出るので、立ち読みだけにしておこうと、散漫な注意力で拾い読みしたが、それにしてもあれは、原理主義が読み解いた憲法の無意識だったのか?ゴホゴホ...解釈は、原理主義にとっては、破壊である。世界を変革しなければならないとされる原初的テキストをそのままに称えることになる。そうして、一字一句変えるな、すべてを変えるために!と、原理主義は、己れの正当性はテキストに依り、他に依ることが絶対に不可能なのだが、実際はテキストに書かれていないことをカマトト的に読み進めるのである。精神分析が夢の意味を読み解くように、今日原理主義者は世界を内側から支えている固有性を読み解こうとする。「資本論の無意識」を書いてきたようなこの原理主義者も例外ではない。憲法を前にして、世界の固有性を読み解いてみせた。ここで、帝国の時代における憲法の可能性の中心を呈示してくれていることはそれなりに意義深い、ゴホゴホ...。柄谷行人が見いだしたカントの平和論の本質に、市民一人一人がいかに普遍性と関係していくという問題意識があることは確かだ。だからこそ、「亜周辺」という顕著な位置と機能を活かした、安全保障としての「無償の贈与」の力を呼び出す前に、まず、日本の戦争が人類にたいする犯罪であったという構成がアジアにおいて必要とされると私は考える。無意識の生産性を指摘しても、エスカレートしていくアジアの歴史修正主義者たちの集団的無意識(民族主義)を一生懸命再建しても仕方がないようにおもうよ。お互いに利用し合うためにお互いに憎み合う政治家達がなにもやってくれないならば、これからは市民一人一人が平和外交を行えばいい。(チョムスキーが言うように占拠運動は事実上外交政策なのである。)平和共存と精神の平等の方向性において人間の歴史を書くのは、憲法を贈与するという形で憲法を利用した市民一人一人の人類性の無意識ではあるまいか。