この歴史修正主義者の大臣の言い分とその行動をその通りにみとめていったら、戦後憲法で断ち切られたはずの国体的<戦前>ー祀る国家=戦う国家ーとの連続性が回復してしまいますよ

 

「国策に殉じられた方々のご慰霊ということは、外交問題ではありえない種類のことだと思います」」(高市早苗総務大臣

 

この歴史修正主義者の大臣の言い分とその行動をその通りにみとめていったら、戦後憲法で断ち切られたはずの国体的<戦前>ー祀る国家=戦う国家ーとの連続性が回復してしまいますよ。この政教分離違反は、憲法の内閣の連帯責任の原則から言って、安倍首相の責任として、安倍内閣の参拝としてとらえるべきだとおもいます。これは戦争のそのままの形です、これは。だから外交問題になっているわけでしょうに。そもそも靖国神社は戦争を推進する顕彰施設でした。ともらうならば、日本国政府が設置した戦没者慰霊施設である、千鳥ケ淵戦没者墓苑に行ってともらってください。

靖国神社は、日本という祭祀国家として出発した近代国家を象徴した顔であると思っています。神道は元々は、儒教の影響のもとで、御師が鈴を鳴らして説教するような心の宗教でした。お御籤とかその名残といわれます。神は心の中にいました。だが例の本居宣長の言説によって、その神が心の外に出ることになると、神は祀られる対象となりました。(と同時に神社はすることがなくなったのですね。)

安倍さんにいかせてあげなさいということを言う危険な連中はすぐに反発されますが、厄介なのは、靖国神社が古代にあったということをもっともらしくいう知識人の発言ですね。ところがそうすると、近代の産物に過ぎない靖国神社はいわゆる文化遺産として観念されて永久に取り除くことができなくなってしまいます。靖国問題は政治問題なのに、それを文化論的にとらえる言説が非常にヤバイのです。日本会議とか神社本庁が強調する「習俗」ですね。そうするとだんだんと参拝する国民ができあがてしまうのです。靖国神社と結びつけば、それは国家神道の復活です。靖国神社憲法改定の署名をする運動がでてきました。私の周りも危機感がないのは、靖国問題を文化論的にとらえるようにさせられてしまったからです。

ところで、魂はいかに消滅するのかという問題は、比較宗教学的にとらえるとどうなるでしょうか?よく知られるように、死後魂は肉体と一緒に消滅するというのがアリストテレスの説でした。大雑把にいうと、その後に、神は永遠だという中世キリスト教の教説と折り合うようにと、トマス・アキナスは魂の問題を存在の問題として構成していく形でアリストテレス唯物論的な考え方を修正していきました。ユダヤ教の信者は、死後の魂はなくなるが復活するとかんがえています。ロンドン時代のユダヤ人の友人は墓は大事ですが、死後の世界のことにそれほど関心がありませんでした。中には、ゾンビみたいに最後の日に土から復活すると言って恐ろしがっているものもいました。コーランはいわゆる折衷説といわれます。ここで注目したいのは、アラブの哲学者たちが集団的な魂は再び個別的に分けることができるかどうかを議論していますね。この点については、靖国神社は教義上、A級戦犯の魂は他の魂から分けることができないと言っていますが、この根拠は大変怪しいものです。ちなみに朱子は霊魂はいずれ消滅するという唯物論的立場でした。江戸時代は伊藤仁斎をみると、鬼神を否定しませんが、鬼神を語らずの立場でした。死者よりも生きているひとたちの方を大事にしましょうという考えで、いまに通じる参考になる考え方です。たしかに、戦争神社の公式参拝に抗議するアジアの人々の気持ちを大切にしたいものです。戦前の天皇は三つの権力をもっていました。主権者であり統帥権の保持者であり、そして靖国神社のもとで死者を祀る最高権力をもっていた存在でした。もし死者たちの魂は存続しているとかんがえれば、現在生きている者たちは儀式としてそれらのために靖国神社でコミュニケ―ションする理由もあるでしょう。しかし死者たちの魂は侵略戦争をやめることを誓った憲法の言葉に定位することよって、消滅しきったのだとおもいます。そのかわり魂は平和の理念として永久を得たという考え方にわたしは賛成です。この考え方は敗戦後の日本人のそれを代表しているのではないでしょうか。安倍の祖父とかA級戦犯の魂は分祀の手続きで、吉田松陰神社などの地方の神社なんかで祀ればいいんじゃないですか?

 

 
 
本多 敬さんの写真