映画と政治世界

風邪がなかニャかぬけないし、頭の中がどんどんボオーとしている。ついにパソコンの方もうごかなくなったみたい。と、どうしていいのかわからずすっかり弱気になり、仕方ないので、旅先で書きながら考えるように、iーphoneに言葉を入力していく。このように書きながらだと、たいていゴダール映画のことを考えることになる。たしかに、現代映画の方向は、デユラス「インディアンソング」においてそうであったように、盲目の言葉と沈黙の映像である。現代映画は反演劇的であろうとしている。映画においては、演劇のようには、見たことを語ったり、語ったことを見ることは起きない。言葉と映像が交錯するのは偶然である。ゴダールの編集の場合、映像と音は互いに独立してはいるが、ドウルーズが言うようには両者が互いに完全に独立しているわけではない。それぞれの系列が自立性を保って多様性を実現している。このシステムは政治について考えさせる。例えば台湾は自立性を保つことに成功したから多様性を実現できた。比べると、わたしがいたアイルランドは政治的に「独立」を獲得したが、戦後アジア-アフリカ-ラテンアメリカの諸国の「独立」の場合のように、経済的な自立をともなうことがなかったので、国家的アイデンティティの方向に画一化したと指摘される。復古主義としてのナショナルアイデンティティは、国策的ポストコロナリズム言説が称えるまえに、排他的なナショナリズムの内部に絡みとられているようだ。再び台湾のことだが、昨年訪ねたとき経済的な自立性が危うくなっていることを知った。(その意味でTPP日本も同じなのだが)。子安「帝国か民主か」は実は、沖縄の自立について真剣に考えた本であることはやはりどこかに書いておくべきだろう。