家永三郎「日本文化史」を読む

教科書検定問題の報道のなかに家永さんは存在していた。学生のときはその講義は常に超満員で一度も教室に入れなかった(モグリだから文句言えない)。「民衆の成長」「人民大衆の歴史的成長」の言葉が氾濫する。民衆に裏づけられない「日本文化」については取るに足りないとされるが、具体的なケースを分析するとき、もちあげているのかおとしているのかはっきりしない。民衆の視点から語るのに江戸時代の知識革命の意義が見落とされている。だけれどちゃんと藩校や寺子屋のことを評価している。最後の資料写真は、郷学の講堂(庶民のための教育機関)であった。だれが「日本文化史」を語るのかという問題をどうしても考えることになる。聴講者の女性からきいた言葉を思い出したが、読んでみると、たしかに女性の視点があることに気が付いた。男性が読む「日本文化史」と、差別されてきた女性が読む「日本文化史」は同じではない。このことは和辻の文化論をよむときには隠蔽されてしまう。古代社会初期の文化に言及しているところでは、「神代」の物語については支配階級(天皇)の政治的意図から出た創作でしかないとはっきりと指摘している。大正の津田左右吉の意義深い脱神話化の仕事をおもった。

 
本多 敬さんの写真