考えてみれば、長い歴史を誇る伊勢神宮は、そのことによって、安土桃山時代の煌びやかな「文化」からも影響を受けているのです。歴史性が強調されば強調されるほど、そこに、突然の断絶も含む、猥雑なパッチワークのジグザグ線の痕跡が残るのです(わたしはクレーの絵のようなジグザグ線を思います)

今夜の『クローズアップ現代+』わたしたちと憲法、では、日本会議についてもとりあげるようです。テレビがありませんから、明日タイムラインの皆さんのご意見を読みたいです。

さて今年三月に「伊勢神宮の意味を問うツアー」で昭和思想史研究会の参加者たちとともに伊勢神宮に入ったときのわれわれ十人は「アルファビル」のレミーコーション如き懐疑精神の探偵。と、大袈裟なものではなく、今日「入口」と当たり前に指示されている地点に立って、いつからここが「内部」と「外部」を分け隔てる境界線となったのかを疑うことから始まりました。伊勢神宮の近代とは、境界線なき猥雑性を取り払って神々しい秩序を演出したという近代。国家神道の時代の姑息な演出を見抜くのにそう時間はかかりませんでしたが、内宮正殿の一部をみたときその黄金のギラギラした輝きに唖然としました。それまでその建築物は私の頭の中では飾り気がない朴訥な「自然」と結びついていたので「意外」に感じたのでしょう。このとき自分が囚われの身のアンナ・カリーナよりも洗脳されていたことに気がつきました。ここで子安先生の解説の言葉をききながら、考えてみれば、長い歴史を誇る伊勢神宮は、そのことによって、安土桃山時代の煌びやかな「文化」からも影響を受けているのです。歴史性が強調されば強調されるほど、そこに、突然の断絶も含む、猥雑なパッチワークのジグザグ線の痕跡が残るのです(わたしはクレーの絵のようなジグザグ線を思います)。歴史のキャンバスに、太古から現在までをひく単一の直線をひけるはずもないでしょうが。しかし安倍の「美しい日本」(「この道しかない」)と日本会議の救済神学のもとに、だんだんとなんとなく参拝する国民が誕生すれば、これから彼らはこのジグザグ線の痕跡を消し去り、包摂的隠蔽の直線を構成することが起きるのでしょうか?と、家永三郎「日本文化史」の中の白黒の写真を勝手に金色で塗ってみたら、こんな禁じられたモンタージュが!?還元できない歴史の複数性を読み取りたいものですね

 
本多 敬さんの写真
本多 敬さんの写真