’riverrun’とは何であったのか?ジェイムス・ジョイス「フィネガンズ・ウエイク」のこの書き出しの言葉は、vivre->vivonという風に似非フランス語的に、「夢を見ましょう」(erre-revie)と読めます

’riverrun’とは何であったのか?ジェイムス・ジョイス「フィネガンズ・ウエイク」のこの書き出しの言葉は、vivre->vivonという風に似非フランス語的に、「夢を見ましょう」(erre-revie)と読めます。「河」の意をとるならば「河は走る」とも読めます。ある訳者は戦争の神のことを喚起させるために「川走」(せんそう)と書き記しました。たしかに、アイルランドの繰り返される戦いの歴史(現代の内戦も含めて)がありますが、過剰な深読みかもしれません。「フィネガンズ・ウエイク」は何語で書かれた本なのだ?という問いが繰り返されます。また聖書とか神話の書記言語でかかれた原初的テクストは読むことができない unreadableということの衝撃ですね、読むことができないその衝撃がなぜ読む人間にとって大切となるのかということを、その衝撃を損なうことなく保ちながら書いたところにジョイスの凄さがあったとおもいます。結局、ゲール文芸復興運動にとっては、(政治的意図からも)、原始的テクストは彼らが依拠しようとした「過去」のことを意味していますから、ジョイスの’unreadable’というその書き方がいかに偶像破壊的・脱神話的だったかということを感慨をもって思いかえします。と、私のことで恐縮ですが、ヨーロッパ人の読むことができないことを知りながらあえて読みすすめていく読みについていけなくなった自分の限界がありました。漢字の書記言語に突き動かされて江戸思想の文献を読んでいる現在から再び考えると、読む人間の思考の持続を可能にしていたのは、フーコ『言葉と物』でも問題にしていた原初的書記言語の存在だったんだなとやっと気がつきました、多くの年月を必要としましたが、『ケルトの書』は文字を飾ることによって原初的書記言語の存在をたたえていたというわけです

 
本多 敬さんの写真
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