書評;子安宣邦著、『「大正」を読み直す』(藤原書店)

子安宣邦著、『「大正」を読み直す』(藤原書店)

本多敬

 

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なぜいま『「大正」を読み直す』ことが意味を持つのか。この問いは、「大正デモクラシー」とは何であったのかという問いと一体をなすと考えられる。子安宣邦氏は藤原書店発行の月刊誌「機」で次のように語っている。

私が大正に眼を向けだしたのは、二〇十一年三月十一日の東日本大震災に際して関東大震災が、大正の国家社会にもった意味を考えたりすることを通してであった。大正を問い始めた私は、やがて大正が創り出した、全体主義的昭和という時代の中に自分は生み落とされたのではないかと考えるようになった。私は昭和八年の生まれである。(大正の再発見—なぜいま大正を読むのか)

また、子安氏は『「大正」を読み直す』のなかで以下のように語っている。

私はこの世紀の初めの時期から、昭和の戦前・戦中期の日本への関心を深めていった。その関心は「近代の超克」論や「和辻倫理学」論、そして戦前・戦中から戦後にかけての日本人の「中国」論を読み直す形をもって市民講座で語られていった。この昭和戦前・戦中期をめぐる講座の中で、私はこの昭和とは大正がまさしく作り出したのではないかと、昭和一桁生まれの私は大正から作り出した昭和という全体主義的時代の中に生み落とされたのではないかと思うようになった。

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こうして、子安氏の問題提起は、「大正」がいつ始まりいつ終わるのか、という定義から始まっている。

大正天皇の在位期間、すなわち一九一二年(明治四十五/大正元)年七月三十日から一九二六(大正十五/昭和元)年十二月十五日までを大正時代というが、「大正」という時代の歴史記述が一般にこの王朝交替的時代区分に直ちにしたがってなされるわけではない。

もし大正の時代を明治と昭和との間に陥没させたままだったら、「大正」は忘却されるかもしれない。つまり、「王朝交替的時代区分」に従って大正を明治と昭和の間に位置づけてしまったら、「大正」への問いが成り立たなくなってしまうではないか。自明とされているその分節化の恣意性が「大正」の本質を見えなくしてしまうというのである。

「大正」への問いとは、「大正」と「大衆社会」の成立の意味を問う批判を構成する。昭和思想史研究会という市民講座(「大正」を読む)の第一回では、まず「日比谷事件」を始まりとして想定する必要性が論じられた。このようにして、現在より「大正」を読み直すとき、すなわち、日比谷公園焼き討ち・大逆事件から満州事変までとする期間として「大正」を再構成するとき、なにがみえてくるのか。大衆社会が成立する時代として「大正」を読むとき、その始めを「日比谷公園焼き討ち事件」に、その終わりを「満州事変」に再分節化することはいかなる理由で正当化されるか。子安氏が依る成田龍一氏の分析において指摘されるが、そのように大正の初めと終わりを再定義するとき、統制としての治安維持法と一体であった普通選挙法は本当にそれほど<市民的>デモクラシーであったといえるのかという問題がわれわれのまえに顕わになる。ここから大正への問いが初めて成り立つ。

「大正」への問いとは、また、不特定多数の民衆集団が政治を動かしえるほどの大衆として、都市に流れてくる労働者とともに、<大衆的>デモクラシーとしての全体主義を形作った歴史を追っていく問いである。この問いに取り組むためにいかにハンナ・アーレントに負うたかについて、子安氏は次のように述べている。

私の「大正・大衆社会」論的問題関心を動機づけたのはハンナ・アーレントの「全体主義」論であった。「全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見出し自分達にふさわしいと考えた唯一の組織形態である」というアーレントの「全体主義」論を読みながら私は、昭和日本の全体主義ファシズム成立の前提条件をなすような「大衆」と「大衆社会」とは何かを考えてきた。成田の『大正デモクラシー』は最初の答えを私に与えてくれたのである。

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「大正」を問うこととはクローズアップである。クローズアップは光の中に事物を置く方法であるが、犯人に照明を与えるやり方で、だれが幸徳や大杉を殺したのかを問いたいと考える。だれが労働運動において事物の根本を問う思想からその観念性を剥がしたか。だれが媒介を批判する直接行動の思想性を爆弾に書きかえたのか。「大正」は取調室の中での犯人に対する尋問のように、ある抑圧のうちに隠蔽された、全体主義昭和の先行形態としての自らの顔を照らし出す。

「大正」は可能性の中心だった。直接行動論という無媒介の思想(私はこれをモンタージュの孤独と呼ぶが)を、国家が抹消し社会主義者(大河内一男の社会主義史的記述)が忘却したので、天皇制国家の民主化という映像へは到来し得なかった。そこから大衆的国民が登場する一九三〇年代は市民なき孤立への道となる。ファシズムのクローズアップと大きな人間への拍手しかなくなる。

石川啄木は「大逆事件」の真相を国家権力と共に歪曲したメディアの意見形成的コミットメントとして見抜いていた、と子安氏は指摘する。

啄木は社会主義概念を反国家的、反皇室的な危険思想として大衆に定着せしめる上で新聞が果たした役割の大きいことをいうのである。

われわれがいま『大逆事件』を読み直すことの意味は、日本の近代社会が<大衆社会>として成立しようとしているその時期に、国家によって先手を打つようにしてなされた社会主義思想の殺戮事件、すなわち「大逆事件」によって殺されたものが何かを、そして社会主義者自身が己の陣営から消し去ってしまったものは何かを、その喪失したものの大きさとともにあらためて見出すことになる。

(以下、藤原書店発行月刊誌「機」より引用)

私は「大逆事件」を問い直すことから大正への私の探索を始めた。私は大正への問いを年号の始まりからしようとはしなかった。「大逆事件」から、すなわち明治四十四年(一九一一)一月十八日大審院法廷が幸徳秋水から二十四名に死刑の判決を下したあの事件から、私は大正を問い始めたのである。「大逆事件」とは、やがて来るべき新しい時代と社会に向けてなされた明治国家権力の先制攻撃であった。大正という二十世紀的日本社会は、「大逆事件」という重い軛を負いながら、あるいは負わされて始まったのである。戦後日本の最高裁は、昭和四十二年(一九六七)「大逆事件」再審請求の特別抗告を棄却した。明治四十四年の大審院判決は、戦後日本の最高裁によって追認されたのである。百年前の「大逆事件」は、なお「大逆事件」であり続けているのである。ということは戦後日本の民主主義的国家・社会とは「大逆事件」がなお「大逆事件」としてあり続けることを許している国家・社会であるということになる。だから大正を「大逆事件」から読み始めるということは、大正だけではない、戦前の昭和をも、さらに戦後の昭和を読み見直し、問い直すことをわれわれに求めることになるのである。

明治四十四年に国家に扼殺された幸徳をあらためて読むこととは、「大逆事件」の名を負わされた革命劇を語り直すためではない。「大逆事件」は、社会的正義と自由への民衆の本源的な要求に立った社会主義思想を、その芽生えにうちに扼殺したのである。国家権力は、幸徳らの「直接行動論」を反国体的テロリズムとして射殺した。それ以来、社会的正義と自由を求める労働者大衆自身の自立的運動をいう「直接行動論」は封印されてしまった。それを封印したのは国家権力だけではない。日本の社会運動もまたこれを封印していったのである。幸徳を読み直すとは「大逆事件」を通じてわれわれが国家権力とともに封印し、われわれの運動からも喪失させてしまった大事な何かを幸徳に再発見することである。その再発見とは、昭和の戦前・戦後史の読み直しの中で再びなされることでもある。

4

「大正」を考えることは、二十一世紀東アジアにおける民主的直接行動としての民主化運動を考えることである。子安氏の『「大正」を読み直す』が、『帝国か民主か』(二〇一五年刊)に続いて世に出たことに注目したい。「大正」を読むことは、「昭和」を読み直すこととなった。「昭和」はそれ自身をとらえ直し、読み直すことを可能にする「大正」という外部的視点をもったのである、と子安氏が言うとき、「大正」と日本の外部をなす東アジア、この両者が、外部的視点において互いに切り離せない関係を形成していくことは必然と考えられる。つまり、「大正」と東アジアは、「日本」というブラックホールを回避していく外部の思考としてあるということだ。こうして、『「大正」を読み直す』とは、東アジアを読み直すということを意味している。この意味で、『「大正」を読み直す』に与えられた真の意味での副題は、「東アジアの幸徳・大杉・河上・津田そして和辻・大川」と読まれよう。

では、二十一世紀の東アジアでなにが起きているのか。市民のオキュパイ運動によって本当の意味で始まった二十一世紀という時代にみえてきたものは、グローバル資本主義と<帝国>と民主主義である。グローバル資本主義の分割は、<帝国>を中心に推進されている。具体的には、新自由主義新保守主義のアメリカ<帝国>、第四帝国としてのEU<帝国>、スターリン主義ボルシェヴィキズム=ツァーリズムのロシア<帝国>、そして官僚資本主義の新儒教の中国<帝国>、である。安倍自民党は日本をアメリカの側に位置づけようとして中国<帝国>への対抗としての危険な役割を引き受け、東アジアは、この安倍が原因をつくった、民族主義的憎悪を互酬的に交換するという危険な権力ゲームに囚われている。このゲームの内側で、民主主義の形骸化は一%のネオリベの新貴族たちによって推し進められている。これに対して、非暴力の抵抗であるオキュパイ運動からalternative(他の道)の民主主義が現れてきたことに注目したい。民衆的自治・自由論・民衆的直接的行動論を「民主主義」の真の再生の力にしていく語る民主主義の運動である。そこで、市民の思想史は、東アジアのグローバル・デモクラシー=白紙の本になにを書くことができるのか。こうして、コンテクストの多義的切断によって、それまでは共通点がないとされた、幸徳と大杉に小田実が初めて結びつけられることになった。安倍が原因をつくった、民族主義的憎悪を互酬的に交換するという危険なナョナリズムの権力ゲームに東アジアが絡みとられないためには、なにをなすべきか。この問いに答えるべく、子安氏は小田について語ったあとに、大杉栄の言葉を引いている。

私はこの小田の「でもくらてぃあ」という市民運動的政治原理に幸徳らのアナーキズム的「直接行動論」の最善の形での現代的再生を見る。私は小田をアナーキズムの二十一世紀的再生者として「アナルコ・デモクラット」と呼びたいと思っている。小田はこの呼び方に不満だろうか。だが小田の「でもくらてぃあ」をいまアナーキズムとの思想関連でとらえていくことは、東アジアにおける民主的直接行動としての市民運動を二十一世紀的現代における世界史的な意味において見ることを可能にする。

しかし、人生は決してあらかじめ定められた、すなわちちゃんと出来上がった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことがすなわち人生だ。労働運動とはなんぞや、という問題にしても、やはり同じことだ。労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働問題というこの白紙の本の大きな本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ。観念や理想は、それ自身がすでに、一つの大きな力である、光である。しかしその力や光も自分で築き上げてきた現実の地上から離れれば離れるほど、それだけ弱まっていく。すなわちその力や光は、その本当の強さを保つためには、自分で一字一字、一行一行ずつ書いてきた文字そのものから放たれるものでなければならない。

大正を読むとは、自身の権威だけに依り他の権威に依存しない行為の語りを読むことである。大杉は、「民本主義」の吉野作造のしどろもどろの議論を国家主義時代の「民主主義」の衰亡史として読み切った。国家に飲み込まれて行ったのは「民本主義」ではない、「民主主義」なのである、という。

5

河上肇が『貧乏物語』を書いた時、『資本論』がすでにあったことを子安氏は強調する。つまり、河上の『貧乏物語』とは『資本論』の再語りであったことを読者に喚起する。日本知識人による再語りというのは、ヨーロッパの言説から語ることを前提として、そこにこだわりつつ、純粋な理念的構成の中からその内部に即して対象(この場合の「貧困」)をとらえる態度と理解できるだろう。子安氏は、河上が<貧乏線>にしたがって日本の貧困を計算しようとはしなかったことに注目する。それはなぜか。

生活可能な最低値として数値化された<貧乏>概念と<貧乏線>とともに顕わにされた最富国英国における大量の<貧乏人>をめぐり河上の『貧乏物語』というメッセージは何を意味するのだろうか。大正社会の読者はここから何を受け取ったのだろうか。『貧乏物語』は日本の読書界にセンセーションを巻き起こしたことはいわれている。しかしそこから日本社会に<貧乏線>を引いてみようとする試みをしたものはいない。そもそも河上自身がそんなことを毛頭考えていない。彼にはそもそも<貧困問題>があったわけではないのだから。

そうしてpoverty(英国の「貧困」)は再発見されても、日本の<貧乏>は発見されることはなかった。河上はヨーロッパの貧困についての言説を日本に適用しない。これは、今日の「現代フランス思想」の日本知識人達がヨーロッパのファシズム批判の言説を日本の暴力の問題に適用しないような態度と重ねることができる。子安氏は『「大正」を読む』の特別講座設け、近代日本知識人の純粋理念型の問題の理解を深めるために、丸山真男ファシズム論の例を検討された。丸山はファシズムですら純粋理念型として構成し、日本のファシズムに始まりも担い手もいなかったと結論づけることとなった。こうして、天皇ファシズムの実行者(天皇機関説を反古し国体論を展開した官僚と学者、思想家と宗教家、昭和ファシズムを実行し現実化した政治家と軍人)をやすやすと見逃すことになるのだが、今日「日本会議」のようなファショ的政治集団が戦前の言説とともにそのままの形で登場することの理由がここに存する(確かにドイツも極右翼はいることはいるが、彼らは戦前のファシズムとの関係が絶たれている。この点が、ファシズムを見逃した日本の場合と決定的に違うという)。この<理論>の<事実>に対する優位という問題は、理論の行き過ぎた実体化を正すカント的経験知が生かされないということに尽きよう。子安氏はこの点について語る。

資本論』をすでに存在する権威として受容した日本のマルクス主義知識人に著しい通弊である。

さらに、この問題を考えるために、子安氏は、ピケティの『21世紀の資本』がいかに読まれたのかを検証する(<貧困・格差>論と「資本主義」の読み方)。結論をいうと、『21世紀の資本』の教訓は生かされなかった。その教訓とは、「資本主義のコントロールを取り戻したいのであれば、すべてを民主主義に賭けるしかない―そしてヨーロッパでは、それはヨーロッパ規模の民主主義であるべきだ」、というものである。社会のなかで人々が知りたいという特別な対象について説明されたり考えたりする知の記述の根底に、隠蔽された権威的教説(マルクス主義)へのこだわりが存在している。このこだわりのブラックホール性は、『21世紀の資本』を規定していると子安氏が解釈するブローデルの方法論的問題意識すらみえなくさせているほどだ。子安氏は言う。

私がピケティの『21世紀の資本』の背後にアナール派の歴史記述、何よりもブローデルの『物質文明・経済・資本主義』を見るのは、その参照注の有無にかかわらず、当然の推定だといえるだろう。むしろこれを背後に読むことによって、ピケティのこの書の意味は一層明らかになるのである。日本の読書界のリーダーたちがピケティのこの書を迎えるに当たってもっぱら『資本論』を引き合いに出し、ブローデルの『物質文明・経済・資本主義』をみようとはしないのは彼らの鈍感と無知とを示すものでしかない。

6                                                                                        

二十世紀社会に対する問い直しが迫られている現在、「大正」は再び発見され、読み直されねばならない。子安氏は、津田左右吉を読み直し、『神代史の研究』が現在にもつ意味を掘り起こし、和辻哲郎を再び発見する。

戦後において、津田の仕事は国家神道批判として読まれてきたが、これは正しくないと子安氏は指摘する。津田が行ったことは、記紀「神代史」は「作り物語」であるということを明らかにしたことである。子安氏の説明に従って津田の仕事を理解するとき、「神代」という観念は「政治的なものだ」といえる。例えば、「タカマノハラ」という観念は宗教的でもなく、宇宙論的でもなく、ただ「政治的」だという。子安氏は津田の系列に連なるある日本古代史家を批判しながら次のように分析した。

「神代史」が「作り物語」だということには、「神代史」における民衆の「伝承的事実」の認識を介して主張される<神代>と<いま>との連続性を遮断しようとする意志の表明を見ることができる。

つまり、「神代史」は言説上に構成されるだけだ。ゆえに「神代史」に民衆は無い。

津田はタカマノハラ観と民衆思想との間の交渉関係などない、民衆とは無縁だというが、それは「タカマノハラ」だけにいうことではない、「神代史」そのものについていうことである。「神代史」は民衆とはまったく無縁に成立するというのである。「神代史」は民衆とは無縁だという津田の言葉は、「神代史」を「国民的物語」「民族的物語」とすることへの批判でもある。

ここで子安氏の津田を引く言葉は、かつての国家神道のものではないにしろ、今日における『古事記』の再神話化(神話学的・文学的な再神話化、構造主義民俗学文化人類学的神話化)に対する警鐘の言葉となっている。そして、その言葉は、『「大正」を読み直す』という課題において、和辻が行った『古事記』の復興に対する批判の前提をなすものである。

津田批判としての和辻の『古事記』復活の論理とは、以下のようなものであるとされる。『古事記』は歴史的材料としてではなく、文化的あるいは文学的資料としてみなされるべきである。それは「想像力の産物」なのである。子安氏が指摘するところによると、和辻のいう想像力とは、民族の国家的な統一を作り出す政治的制作力と同等であるような、民俗の文化的な統一を作り出す文学的創作力のことにほかならない。『古事記』の復興は文学的解釈力を自負する和辻によって担われる、と指摘したうえで次のように結論づけられる。

和辻は『古事記』の混合テキストから帝皇日継を洗い去ったところに「先代旧辞」という「一つの芸術作品」を認めるのである。『古事記』の旧辞とされる神話・民話はただ寄せ集められた多数としてあるのではない、和辻はそれらを一つの芸術的な作品として見るのである。これを一つの作品とすれば、そこに作者が存在することになるだろう。「その作者が(単数であると複数であると問わず)上代のすぐれた芸術家であったことを認める」と和辻はいうのである。その芸術的な価値においては『日本書記』は『古事記』にはるかに及ばないと和辻はいう。その『日本書記』について和辻は作者をいったりはしない。では『古事記』の「先代旧辞」の作者とはだれか。宣長はすでに和辻がいう「先代旧辞」の作者を天武天皇稗田阿礼の二人に見ていたように思われる。和辻もまたこの二人を作者としていたのかもしれない。だがこの二人に見る作者とは、多くの異本群からこの「先代旧辞」を最良のものとした選定者であり、その旧辞の言語を誦習し、記憶にとどめた宮廷の語り部ではないのか。本当の作者とはその旧辞の中にこそいるのではないか。神話・民話として語り伝えられたこの「先代旧辞」をもしすぐれた一つの作品というならば、その本当の作者とは一つの言語(日本語)をもった神話・民話の想像力豊かな語りの匿名的多数の主体であるだろう。日本語をもった文化の共同的主体とは日本民族にほかならない。『古事記』も「先代旧辞」を和辻が一つの芸術作品と認めたとき、彼は作者としての日本民族をその作品の背後に見出していたのである。

日本民族の呼び出す、幻想としての一つの芸術作品に対する、ひとりひとりの人間の譲歩(コンセッシオン)には、「身体、魂、財産の譲歩など、際限がない」(ジャック・ラカン、『テレビジョン』)のである。『古事記』とは和辻によって理念的に構成された、「日本民族の最初にして最古の芸術的作品」である。津田の脱神話化に対抗して、和辻の解釈に負う「昭和の偶像はこのようにして再興された」という。

7

『「大正」を読み直す』の最後の章は、「大川周明と『日本精神』の呼び出し―大川周明『日本文明史』を読む」である。この章の意味を考えるために、大川が伊藤仁斎を積極的に論じていたことが重要となる。そして、仁斎とカントが同時代の思想家であったということの意味は何かを問うてみよう。

まず、普遍主義の理論的前衛(原理)を批判したカントは、彼が初めて発見した主体とその位置にある経験知というものを言説化した。カントの前に、主体のことも経験知のことも言った人はいなかったのである。カントから近代とその批判が始まる。よって、カントと同時代の仁斎が体現する「江戸思想」から、(「大正」の読み直しが「昭和」の外部的視点を構成するように)昭和十年代のヘーゲル「世界史」的近代原理を批判できるはずである。

ロシア革命を観察しその後にできたレーニンとスターリンの(ウクライナを併合してできた)全体国家を批判した社会主義者は(後にアナーキズムへ行く)幸徳と大杉だけではなかった。ある一定の時期の大川もその社会主義者の一人であった。だからこそ、大川が説いたアジア解放の社会主義の思想は、いかに仁斎の思想の中に帝国的言説に対する批判的読みの現代的可能性が存在していたかを知っていた。

皇国史観の国体論ファシズムの否定は大川と北一輝とに共通のものであるが、それを、評伝的に誰々の言葉として聞き取る実体化よりも、大正の思想を一体的に構成する批判精神の言説として読む方法論が重要であろう。左翼か右翼かと二項対立に整理できない、この時代の思想的配置を抹消してしまったのは、ほかならない、戦後民主主義の二項対立的な言説であった。どうして、わたし(「社会主義者」)は、あなたが言ったようなわたし(「権威的右翼」)でなければならないのか、という自己のアイデンティティを他(戦後民主主義)に委ねなければならない語りの苛立ちを感じつつ「大正」を読み直す我々が存在する。

ヨーロッパ的原理が最高のものであるにも拘わらず植民地主義に絡みとられることになった問題を解決するために、再びヨーロッパ原理に依拠することは倫理的に許されない。(西欧原理に植民地化された)アジアの経験知からヨーロッパ原理を高めていくと言った竹内好的な近代の超克の言説の意義に沿って、アジア主義的革新者だった時期の大川の読み直しが意味をもってくると思われる。

こうして、なぜいま「大正」なのか、と絶えず問うことは、「幸徳・大杉・津田、そして和辻・大川」の道を歩むことであり、さらに、ヨーロッパとアジアとの距離を書くことに相違ない。ここから、思想史の言説の地層は、アジアの基底的共感を伴った読みの運動性を介すことによって、多様としての普遍性へ向かって確実に拡充していくのではないだろうか。

(了)

 

 
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