ろくでなし子裁判の意味を読む

ろくでなし子裁判の意味を読む

秘語とは仲間うちだけに通用する言葉で、公言がはばかれるような言葉です。ところが、自らの秘語を公にさらす司法官僚あるいは官僚化した裁判官の中には、恥を知らずに合理的に判断しようとはしない者達がいます。公の秘語からは、なにか極端に行くナショナリズムの発想に非常に近いものを思います。「各造形物は一定の芸術性・思想性を有し、それによって性的刺激が緩和されるといえる。」(判決文の重要な一部)という彼らのジャーゴンjargon(仲間内にだけ通じる特殊用語)について、私はそれを明らかにする力も十分な実定法的知識ももっていません。ただこういうケースではそれはいらないとおもいます。深読みを避けながら、私なりの<思想>的読みから、ろくでなし子裁判の意味を読むのです。法の論理が名指すところの、「思想性・芸術性」を、<尊い固有なもの>と翻訳してみましょう。そうすると、司法官僚化した裁判官たちは、<おのずと神聖な本質が現れるように、自ずと尊い固有なものは現れるのだ>という信条にとらわれていることがなんとなくみえてこないでしょうか。だがその<固有なもの>は、個々の人間の抑制しないという怠慢(努力不足)のせいでわいせつな性的刺激で曇らされてしまうと言うのです。そのときは、その表現行為にかかわったその人格的担い手を処刑する使命が国家にある、と、法は自らの(めちゃくちゃな)規範的教説を自らのために展開していくのですね。ここで私は問いたいのです。なんのために?と。共同体をまもるために、ですか?しかし本当にもしこれでは、本来的に共同体の清らかな心が、外部からきた「外国人」の存在によって汚されてしまうと叫んで、これらの「異質な」者を排除せよと訴えてきた街頭のスケープゴートの態度(感情)とそれほどかわりませんよね。やれやれ、固有性の教説に絡みとられていく近代の意味の病 をみるおもいです。排他性を根底にもつ、この国家的教説の自己同一性の論理にたいして私は常に抗議したいのです。