書評(本多敬)- 子安宣邦 『仁斎学講義』 (ペリカン社)

書評

 

1、東アジアの「論語塾」、朱子学ロゴス中心主義脱構築的解体すること
伊藤仁斎が十年近い瞑想中心の知のあり方に限界を知ったのは三十歳半ばであったという一文を読むとき、彼が自分の書斎から縁側を横切って庭へ出ようと一歩を踏み出したときの様子を想像するのだが、古義堂の書斎から、17世紀の東アジアの知識革命が起きたときの様子である。さて、子安宣邦氏が「仁斎学講義」のなかで、仁斎が「論語」を「最上支極宇宙第一の書」としたことの理由を繰り返し問いていることは重要である。「しかし考えてみれば、十七世紀の半ば、京都町人の出である一青年が強く学に志し、その志を実現しうるような環境と機会と方途とをもっていたというのはまことに不思議である。なぜ可能であったのだろう。」「父伊藤了室が京都の上層に属する相当に裕福な町人であったことが推定される。そしてこの上層町人と公家や僧侶など朝廷・寺院周辺の知識層との交流世界が京都には存在したのだろう。一世紀後に商人と知識層との交流世界は大阪に実現し、懐徳堂とその学問の成立基盤となる。」仁斎が「論語」を「最上支極宇宙第一の書」とした背景として、武士が台頭してくる近世において、朝廷・貴族・寺社が独占していた学問(儒学)に、商人をはじめとする民衆が初めて接近することが可能となった歴史が前提とされていることがわかる。ところが、「最上支極宇宙第一の書」は、仁斎の真意を理解できないまま、彼の死後この言葉を消し去ってしまった後継者にとっては想像を絶するほど異様な表現であったのではないか、と子安氏は指摘する。それはなぜか。権力者にとって危険なメッセージを含むと思われたからか。窮極、「仁斎学講義」はこの問いを中心に成り立っているといっても過言ではない。さて、子安氏が大阪の市民講座(懐徳堂研究会)で「語孟字義」を読み始めたのは、2007年の四月からであったと本書に記されている。それから、「私は2013年の五月から仁斎の「論語古義」によって「論語」を読む講座<論語塾>を始めた。恐らくこれが古学先生伊藤仁斎を祖述する私の作業の終わりをなすものであろう。その作業が一年を経たとき、「語孟字義」解読の作業を完成させるのは今だと考えた」という。ところで、私といえば、図書館に展示されていた蔵書の「語孟字義」を初めて見たのは、ネオリべの政治家による中之島図書館の私有化、資本化に対して抗議しようとそこを訪ねた2012年のことであった。そのときは少しでも読んでみようと思っても知識がなく、正直「どこで学ぶか」すら思い至らなかった。基本的に、そもそも明治以来西洋の学問を中心とした国の教育方針は戦後も変わっておらず、江戸思想を体系的に教える大学がない事情だけは知っていた。それだからこそ、改めて、現在進行中の東京で行われている「仁斎と共に学ぶ論語塾」の持つ意味は非常に大きいといわざるを得ないだろう。しかし、なぜ「仁斎と共に」なのだろうか。この答えになるかはわからないが、見過ごすことのできぬ一文を序文のなかにみつけた。「「論語」から読むという仁斎古義学とは文献主義でもなく注釈学でもない。仁斎においてテキストを見分けることは、思想を見分けることであった。(・・・) 仁斎のテキスト批判のラジカリズムは、同時に思想批判のラジカリズムであった」。確かに、「論語塾」は、仁斎の祖述者と自認される子安氏からもたらされる、学ぶこと、読むことから知の怒りを排除する内部化をやめた、知的な義憤が常に働いている場である。他の経典と比べて怒ることを必ずしも非難しない「論語」ならではの思想批判のラジカリズムへ到達するための自発性が要求されるのである。それにしても、「論語」についてまず言わなければならないことは、この原初のテクストは運動であるということである。このテクストは無限の速さと遅さを持っているとしかいいようがない。象徴的にいうと、そのコンパクトによく統御された言葉は常に、彗星の如くあまりに速く過ぎ去ってしまうので後に何が通過したのか分からない。また、これとは反対に、この原初のテクストは紀元前から実に遅い足取りでわれわれのもと(=現在)に到来してきたともいえるのである。この長い道のりの過程であまりに多くの媒介を包摂してきた。言語の方向を重んじた17世紀の伊藤仁斎が与えた注釈、さらに、この仁斎を読む子安氏のテクストを重んじた注釈を学ぶことによって、朱子学ロゴス中心主義の解釈のあり方を批判的に読み直すことが可能となる。大切なことは、あえて、原初のテクストを読むことの無理を消し去らないということである。これは他者を消し去らない倫理に等しいのではないか。東アジアを形作ってきた漢字のエクリチュールに余白をあたえることである。われわれ自身のあり方が、日本の内部から内部に即してではなく、この余白から規定されてくる可能性を考えるために。よって、東アジアに属する「論語塾」は現在進行中のプロジェクトである。2、「天」の存在論的言説、「人」のアナキズム的言説、仁斎と現在
伊藤仁斎がいう「生生一元的世界」とは何か。
それは<一>的多様体ではありえない。<一>でしかない<一>的多様体の読みほど、<多>の仁斎を台無しにする解釈はないだろう。それでは柄谷(行人)的な<帝国>の<ー>と違わない。強いて<一>を言うならば、そこから、多数の穴が開いたような<一>の状態と考えてみる必要があるだろう。なぜ穴なのか。人の歩み行く道の外に道はあるのかと問われるときに、「公」を介さず「天」と直に向き合う「私」にとって目の前の他者との関係だけが、破れ傘的に、多孔性の「生生一元的世界」なのである。以下は、「仁斎学講義」からの引用である。
仁斎は、宇宙論的な始源を前提にした朱子形而上学的な宇宙観に、運動一元論的な宇宙観を対置した。それを仁斎は「天地の間は一元気のみ」といったのである。天地間にあるのは、一陰一陽というように対をなして展開される一つの運動体的(一元気的)世界であって、陰陽の二契機からなる二元的な世界ではない。天地を一つの運動体として見る仁斎の宇宙観は、生生一元的宇宙観としても表現される。生とは仁斎にあって死をともなって、生死・終始・静動・善悪などといった対概念を構成する一方の契機ではない。生生とは運動体としての天地の根本的な規定である。天地とは一元気であり、それは生生的だということである。
ー p.65、天地は生生して已まず、第二章「孔子の道」の古義学的刷新 (第一講「天道」)
「命」字に実字と虚字があるという仁斎は、その語学的な指摘によって朱子における流行的天と主宰的天との同一化を批判する。「天命之謂性(天の命ずる、これを性と謂う)」という「中庸」のテーゼによって朱子は天道の流行による万物化生の過程をいい、同時にそれは天理の万物の性における必然的な分有の過程であることをいうのである。この朱子の解釈的な言説にあって、天は天理として宇宙生成論的な体系のなかに内在していく。天は宇宙生成(流行)論的言語をもって語られていくとともに、その天は天理としてその体系に内在し、天命の性をめぐる性理学的言語をも可能にしていくのである。天は決してこの宇宙論的体系の外に、それを語る言語体系の外に、語りえない超越性をもって存在するわけではない。天が理として宇宙論的言語体系に内在していくところでは、人は天に直面することもないし、仰ぎ見ることもない。仁斎は天に直面するのである。人生の上に天命としてある帰結をもたらす天に仁斎は直面するのである。孔子もまた天に直面していた。「罪を天に得れば禱るところなし」といい、「噫、天予れを滅ぼせり」と嘆き、「我を知るものは其れ天か」という孔子はあきらかに天を仰ぎ見ていた。仁斎はこの孔子の天を再発見しているのである。この再発見は、朱子宇宙論的な言語のなかにある天を、そこから引き離すことによってである。「語孟字義」の「天命」章で仁斎がしているのは、この天の朱子学的言語体系からの引き離し作業である。
ここで確認しておきたいのは、仁斎の倫理思想とは仰ぎ見る天をもった思想だということである。仁斎の思想も言語も、天への究極的な信に立ったものだということである。彼は決してこれを直接に語ることはない。「論語」からの孔子の立場を読み出すことを通してしか仁斎は語らない。
ー p.91、天に直面する仁斎、第二章「孔子の道」の古義学的刷新 (第二講「天道」)
宋代朱子学も中世神学も、天理のような理念性、すなわち、人間の生がもつ本来性を理念的に体系化したが、これに対して、天と人との間の本来性よりは運動性を見出したのが、18世紀の仁斎とカントなのである。ここで本来性とは、人の不在において成り立つ、意味するものと意味されるものとの間の近さをいうのではないか。つまり秩序の静的な同一性の意である。他方、私の理解では、運動性とは、人を介して天地の間の無限の距離に自らを委ねていく行いである。よって、運動性は事件性と言いかえることもできる。この場合注意しなければならないのは、天が排他的にただ一つあるという思想よりも、天が多数あるという思想のほうが運動性の概念にとっては大切となるということである。さて、西欧の近代思想史は、カントの後に、ヘーゲルマルクスが、カントが壊した中世的思弁をもう一度哲学的に再構成することになったことを教えている。新たな思弁体系をつくるために、ヘーゲルはそれを「精神」と名づけ、マルクスは精神を唯物論的にとらえて「労働」と名づけることになった(日本でこれに取り組んだのが西田哲学である)。つまり、そこで「人」の持つ意味がふたたび認識の側に中立的に客体化されたのである(例えば、マルクス主義唯物史観に個別的な貧困問題はなく、ただシステムのなかの抽象的、一般的な貧困問題があるといわれる。和辻哲郎の「人と人との関係によってなりたつ道」でいわれる意味も、抽象的、一般的な概念性である。和辻はマルクスの「ドイツイデオロギー」を最初に日本へ紹介した思想家である。この和辻と比べて、仁斎の「人」は目の前の他との関係をいう点でもっと具体的、直接的である)。つまり、「人」の消去から二十世紀的人間は(十九世紀の)ヘーゲルマルクスの呪縛に入っていくことになり、二十一世紀になっても脱出できずに囚われたままなのである。例えば、ヘーゲルと言おうとマルクスと言おうと、柄谷行人のいう<帝国>の理論のどの部分に視点を置くかの問題であって、氏の朱子学ロゴス中心主義の<帝国>の思想の本質的な理解に大きな違いはない(朱子学ロゴス中心主義とは、まさに仁斎が解体しようとしたものである!)。21世紀の<帝国>論は、ヘーゲルの客観精神としての「礼」の展開と呼べるかもしれない。このような世界史的教説は、徂徠がいう先王の道が礼楽論的な人民教化の道術、社会統治論的な外部的言説体系に構成して行かざるを得なかったこととパラレルであるところの知の停滞にしかみえない。最後に、首相靖国公式参拝、国民道徳、吉田松陰を伴奏にして安倍晋三が繰り返す「この道のほかにない」という言葉ほど、アジアへの共感を持たぬ彼の国家主義を露わにする言葉もないが、彼が間違っているのはその言葉から肝心な「人」の漢字が抜け落ちてしまっているということだ。絶望的にも、誰もこうしたものを批判していく役割を止めてしまったのか。二十世紀的人間の呪縛を破る外部は存在しないのか。「仁斎講義学」で子安氏が指したのが、「人」をいう仁斎とカントの方向だったのである。「もう何も獲得できないときにも、なにかを失うことはできる」というほどの絶望感、つまり、天に向かって絶望しきったような絶望感、にもとらわれた我々が、「天道」と仁斎が呼んだ運動性としてみなしえる台湾の太陽花運動や香港の雨傘運動に大きな希望を持つことになった理由もここにある。「人」の思想性とは、グローバル資本主義に抵抗すると同時に、東アジアの民主主義を求めるグローバルデモクラシーの市民的「人」の直接行動の思想性のことである。「帝国か民主か」、この問いこそ「仁斎学講義」の前に書かれた中国と東アジア問題を論じた子安氏の本の名となる必然性があったが、「仁斎学講義」と、昭和思想史研究会で進行している未完の講座「<大正>論を読む」とともに、氏の三つの仕事は、戦後民主主義近代主義の言説に対してだけでなく、前述した世界史的教説の一部である民衆史、日本ポストコロニアリズム天皇制構造論の諸言説に対する批判も可能にする、思想ラジカリズムを構成していくものである。この思想ラジカリズムの中心にはただ「人」の思想が存在する。あらためて、仁斎がいう「人の歩み行く道の外に道はあるのか」でいわれる「人」のもつ意味は大きいといわなければならず、ここから離れることなく、「近代」を乗り越える「人」の思想について根本から考えるべき時がきたのではないか。伊藤仁斎が「人」を発見したのは、幸徳秋水大杉栄小田実が「でもくらていあ」の市民を発見したのと同じほどのラジカルな意義をもっていた。ここから、管理された、一瞬一瞬の、システム的組織の利益のためなら、他を全部消し去る、地球規模の抽象的な、グローバル資本主義と帝国の時代、そして、それらの対極でそれらに逆らおうとするオキュパイ運動を契機に市民が蜂起し始めた動乱の時代に、「仁斎学講義」を読むことの意義は大きい。おそらく、今こそ仁斎と共に「論語」を読み直すべき時であろう。

 

 

 
 
 

 

 
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子安氏

『仁斎学講義』が刊行されました。この書は仁斎の主著『語孟字義』の解読からなるものです。『語孟字義』とは、仁斎が「論語孟子」という思想的血脈によって「天」や「道」や「理」や「徳」などの諸概念を根底的に読み直し、朱子学的思弁体系から解放し、「人倫の学」的概念として再構成していった書です。それはわれわれの天地観、人間観を導き出そうとするラジカルな思想的転換作業です。17世紀日本でなされた仁斎古義学という大きな思想作業の実際を、読者諸兄姉がこの書によって直ちに体験してくださることを切に願っております。