「東京オリンピック」の国家プロジェクトとはなにであったのか?

東京オリンピック」の国家プロジェクトとはなにであったのか?

根本的に、なぜオリンピックをやるのかという原点に立ち返りますと、やはり、オリンピックには、記録の達成を祝福する国際大会の意義、自発的なアマチュア精神の奨励、そして、古代ギリシャを起源とする参加の理念の意義があるということは、わたしだけでなくだれでも考えることではないでしょうか。とくに参加の理念については、国家であれ個人であれより多くの参加によって充実するでしょう。(なぜ個人と書いたかと一言説明しますと、私がいたアイルランドのような貧しい国の場合、そういう国の方が多数派なのですけど、世界記録をもった選手たちですら自費で参加しなければなりません。思いだすのですが、日本語を学んでいた学生のように、多くの場合渡航費すら持ってないのです。)参加国の多さから言って、オリンピックは国際サッカーほどは普遍性がなくなったとみられるようになりました。ポストコロニアル時代の現在、西欧世界の特権的祝典が見直されることになってきたのですね。だからこそ、日本は、(近代ヨーロッパが排除してきた)アラブ世界のイスタンブールから主宰国としての参加の機会を略奪的に奪ったことの問題を素直に考え直すときがきたのではないでしょうか。低予算のオリンピックのあり方もどの国もそれを主宰できる重要な条件と考えられるようになったというのに、東京オリンピックの日本はなにもかもカネがモノをいう資本主義にしてしまいかもしれません。たしかにオリンピックの商業主義化はエスカレートするばかりですが、それでも等しく参加するという参加の理念を捨ててしまい、カネの排他的な力だけに委ねた資本主義にとらわれてしまうようでは、もうオリンピックそれ自体もやっていけなくなるのではないかという危機感。今回の買収疑惑はその決定的な答えになりそうです。それでも理念を嘲笑いながら東京オリンピックをやるかもしれませんが、だれのために続けるのか?という問いがずっといわれることになるでしょう。