サドをたたえる

十六世紀以来、性の「言説の中への配置」は、制約を蒙るどころか、反対に、いよいよ増大する煽動のメカニズムに従属していた。-フーコ「知への意志」-

「こう申せばおまえも分るだろう、悪徳こそわれわれ人間に固有のもの、つねに自然の第一法則なのであって、それに比べればどんな立派な美徳だって利己主義的なものでしかなく、分析してみれば実は美徳そのものが悪徳なのだということが。」
ーサド「悪徳の栄え」ー 

 

 

悪徳の栄え」であれ他の本であれ、何が「悪徳」で何が「美徳」は定義されることはないーそもそも「徳」という日本語がはっきりしないー、それはなぜか。結局サドが語っているそれらは、認識の次元に属していない行為だからだ。「悪徳」は人間の行為だということがサドによって発見されたということは、博物学の分類し整理し表にするような認識の対象ではないということを意味していた。だから、「悪徳」が「人間に固有のもの」とされるのは、「悪徳」が「自然」に拠るからだというのは、よくかんがえると辻褄が合わない。「悪徳」は認識不可能だと言われているのだから、この不可能性の問題を解決する為に、再び、認識の不可能性を推し進めた「自然」の認識の体系に拠ることは無理があるだろう。あえて「悪徳」を「自然」の秩序として認識しようとすると、思考され得ないこの表層は、言葉の厚い秩序に深く絡み取られることになる。(サドの小説に顕著な終わりなきお喋りというのは、わたしはわかりませんということを伝えるシグナルである)。フランス革命の前夜、終わりに来た自然を物語る表象の言説と、はじまろうとする欲望しか見えない言説のあいだに、映画の世紀に先行して、サドという特異点が存在していたことに驚きを禁じ得ない。