カントを学ぶ

▼対象を概念だけによって判定するならば、およそ美の表象はすべて失われてしまうことになる。

▼Si l'on judge et apprécie les objets uniquement par concepts, on perd toute représentation de la beauté.

▼Wenn man Objekte bloß nach Begriffen beurteilt, so geht alle Vorstellung der Schönheit verlon.

▼If one judges objects merely in accordance with concepts, then all representation of beauty is lost.

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▼論理的「分量」に関して言えば、趣味判断はすべて単称的(個別的)判断である。趣味判断においては、判断の対象を快・不快の感情に直接にー即ち概念によらずに関係させねばならないからである、従ってまたこの判断は客観的ー普遍的妥当性の「分量」をもつことができない。しかし判断の対象の表象が、判断を規定する条件に従い、比較によってそのまま一つの概念に転化される場合には、そこから論理的ー全称的判断が生じ得る。例えば、私はいま眺めているバラを趣味判断によって美であると判定する。しかし多くの個々のバラを比較して「一般にバラは美しい」という判断が成立するとすれば、この判断はもはや単なる美学的判断ではなくて、美学的判断に基づく論理的判断である。ところで「このバラは(匂いが)快適である」という判断は、なるほどこれも美学的ー単称的判断ではあるが、しかし趣味判断ではなくて感覚的判断である。趣味判断は、感覚的判断と次の点で異なっている。即ちー前者は普遍性の美学的「分量」、換言すればすべての人に対する妥当性の「分量」を伴っている、ということである。そしてこのような「分量」は、快適...に関する判断においてはまったく見出され得ないのである。なお善に関する判断について言えば、この判断もまた対象に関する適意を規定するような判断である、しかし趣味判断のように美学的普遍性だけをもつのではなくて、論理的普遍性を具えているのはこの判断ばかりである。この種の判断は、客観の認識として客観に妥当し、またこうしてすべての人に(主観)に例外なく妥当するからである。 対象を概念だけによって判定するならば、およそ美の表象はすべて失われてしまうことになる。それだから何か或るものを美と認めることを強要するような規則はあり得ない。衣服、家屋、花弁が美であるかどうか、という我々の判断は、はたからどんな根拠や原則を喋々されようとも、そのようなものによって説伏されるわけのものではない。我々は、自分の適意があたかも自分の感覚に基づいてでもいるかのように、適意の対象を飽くまで自分自身の眼による判定に委ねるのである。それにも拘らずその場合に対象を美と呼ぶからは、すべての人が自分の判断に賛成することを信じ、こうしてすべての人の同意を要求しているのである。これに反しておよそ個人的感覚は、観察者だけのものであり、従ってまた彼に対してのみ適意を決定するにすぎないだろう。

▼そこでかかる表象が認識能力(構想力と悟性)の活動を触発すると、この二つの認識能力は相共に自由な遊びを営むのである。この場合には、或る一定の概念が認識能力を制限して特殊な認識規則に従わせるということがないからである。それだからかかる表象によって生じる心的状態は、我々の表象力が与えられた表象に関して、認識一般のために自由な遊びを営んでいるという感情の状態でなければならない。ところで対象の表象、即ちそれによって或る対象が与えれているような表象が成立するためには、この表象は直観における多様なものをまとめるところの構想力と、この多様なものの表象を概念によって統一するところの悟性とを必要とする。そして対象の表象、即ちそれによって或る対象が与えられるような表象にあっては、自由な遊びを営んでいる認識能力のこのような状態こそ、すべての人が普遍的に関与し得るところのものなのである。対象の規定としての認識は、(いかなる主観においてにせよ)与えられた表象がこの規定に合致する限りにおいて、すべての人に例外なく妥当する唯一の表象の仕方だからである。

 
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INVESTIGATION OF THE QUESTION; WHETHER IN THE JUDGEMENT OF TASTE THE FEELING OF PRESURE PRECEDES THE JUDGING OF THE OBJECT OR THE LATTER PRECEDES THE FORMER

The powers of cognition that are set into play by this representation are hereby in a free play, since no determinate concept restricts them a to a particular rule f cognition. Thus the state of mind in this representation in a given must be that of a feeling of the free play of powers of representation in a given represe...ntation for a cognition in general. Now there belongs to a representation by which an object is given, in order for there to be cognition of it in general, imagination for the composition of manifold of intuition and understanding for the unity of the concept that unifies the representation. This state of a free play of the faculties of cognition with a representation through which an object is given must be able to be universally communicated, because cognition, as a determination of the object with which given representations (in whatever subject it may be) should agree, is the only kind of representation that is valid for everyone.(Kant)

 
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