ゴダールと宣長 

 

「映画史」の講義で語っているゴダールを読むと、かれは感覚的に詩を書いている、と同時に、(個々の作品について論じた映画批評を超えて)、非常に論理的な哲学を書いているという印象をもつ。しかし詩を書いたものなら分かることだが、詩と哲学を同時に成り立たせることは非常に無理なことであり、恐らく不可能に近いことなのだ。私はそう思っている。そんな感覚と論理との同時性は破綻してしまう。だからこそ同時性というのは、理念的に構成された次元の同時性のことであるとおもうのだ。ゴダールの場合それは「映像」と彼が呼ぶ働きなのだろう(モンタージュでいわれるのはそういう同時性についての理念)。ところで本居宣長も、詩と批評を同時に書いたようである。今年訪ねた松坂の(骨が無い)墓のお寺に文化サークルの場があったようだが、そこで彼は(決して上手いといわれない)歌を書いていたのである。宣長の歌についての批評の書き出しはこういうものであった。「歌は天下の政道をたすくる道也、いたつらにもてあそび物と思ふべからず、この故に古今の序に、この心みえたり。此義いかが。答曰、非也、歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし、其内に政のたすけとなる歌もあるべし、身のいましめとなる歌もあるべし、又国家の害ともなるべし、身のわざわい共なるべし、みな其人の心により出来る歌によるべし」 (本居宣長著『排蘆小船』(アシワケオブネ))。ここで、「ただ心に思ふ事をいふ」といわれていることは、ゴダールが言う「私自身の感化というものを少しづつ獲得しようと努めること」に重なるのである。ゴダール宣長....遠いものを近づけてみよ

 

本多 敬さんの写真