絶望的に退屈な「分かり易いドゥルーズ哲学」(國分功一郎)

絶望的に退屈な「分かり易いドゥルーズ哲学」(國分功一郎

imaginationは「想像力」か?「構想力」か?1984年の中島盛夫はまだ「想像力」と訳していたが、2008年の國分功一郎の訳では構想力となった。中島は「しかし神学的形而上学の批判ということは、今日考えられるほど生易しいことではない。この形而上学は西欧の哲学思想にとって宿命的な前提であり、たとえ宗教の衣裳を脱ぎ捨てて世俗的姿に変貌しても、ついて離れない影のようなものである」という。これにたいして、國分のもったいぶった解説では「分かり易いドゥルーズ哲学」が強調されている。とはいえ、カントの批判哲学から、どうしてドゥルーズの存在論を導き出せるのか、あるいはできないのかは難問だ。しかしきちんと答えが書いてある。ここで、「超越論的領野における<特異性・出来事>[singularite-événement]のセリーについては説明を割愛したい。」と書かれてあるのが、それである。構造主義ならば、批判哲学あるいは存在論でなければならない。どちらかに統一しなければならない。しかし、批判哲学と存在論、でいいではないか。それがドゥル―ズがまさにはじめていうことになった、差異を差異のままとどめながら「開いたシステム」なのであろう。または、政治の現実とのかかわり合いのなかで、批判哲学に依ることではどうしてもやっていけないということが起きる。存在論でなければやっていけないと。政治であるからそれは説明できない。あえて詩として書くだけである。しかしそれなのに、こうした説明できない<特異性・事件性>を、再び、「われわれは、ドゥルーズがカントに向けた批判をドゥルーズに向けることができるだろう。内在的平面は想定されているのではないか?」という時、<特異性・事件性>なき絶望的に退屈な「分かり易いドゥルーズ哲学」とともに、内部化と純粋な内部に絡みとられていく<差異>なき絶望的に退屈な國分功一郎があらわれてしまうのである。

 

カントにおける諸能力の理説の独自性は次の点にある。すなわち、諸能力の高次の形態は、それら諸能力を、それらのもつ人間的な有限性から切り離すことがないし、またそれらの本性上の違いを消し去ることもないという点である。語の第一の意味でのの能力が高次の形態に達するのも、語の第二の意味での能力が立法的な役割を得るのも、特殊で有限な能力としてなのである。(國分功一郎訳)
L'originalité de la doctrine des facultés chez Kant consiste en ceci; que leur forme supérieure ne les abstrait jamais de leur finitude humaine, pas plus qu'elle ne supprime leur différence de nature. C'est en tant que spécifiques et finies que les facultés au premiere sens du mot accèdent à une forme supérieure, et que les facultés au second sens accèdent au rôle lègislateur.(Gille Deleuze, La philosophie critique de Kant)

本多 敬さんの写真

 

本多 敬さんの写真