アフリカ文学とアイルランド文学の <アンチ・オィデプス>的抵抗の意味を読み解く

アフリカ文学とアイルランド文学の<アンチ・オィデプス>的抵抗の意味を読み解く

 

ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)の『闇の奥(Heart Of Darkness)』は、1979年に映画監督コッポラによって翻案され『地獄の黙示録』として映画化されました。この原作は、アフリカ植民地主義オリエンタリズムといわれます。植民地主義と文学との関係についていえば、ミュージカルの原初的形態ともいわれる、『妖精の女王』(The Faerie Queene)を書いたエドマンド・スペンサー(Edmund Spenser)は、アイルランド総督に仕えていた植民地主義者で、「固有の言語や習慣が暴力によって破壊されるまでアイルランドイングランドに完全に制圧されることはない」と書いていたほどです。さて20世紀のアフリカとアイルンドの作家達は、吃驚しますが、あえてこれらのコンラッドとスペンサーをそれぞれ、アフリカ文学の父、アイルランド文学の父として構成することによって、ヨーロッパの近代主義と(反帝国主義の)ナショナリズム言説が共に依存するような、「敵」「味方」の境界線を相対化してしまおうとしたんですね。その意味で、「カントをドゥルーズの「敵」とするならば」」(國分)というのがかえって敵味方にこだわる傍観者的潔癖がみえてしまうというか、すごく日本人っぽいと思っちゃうのは、ここには、自己の「敵」を敢えて「父」としてしまうような<アンチ・オィデプス>的抵抗の意味が、恐らくは言説の事件性にかかわる政治的なことが、理解されることがないからなんですよね、ただ器用にあちらの項(ヨーロッパ1”フランス’)とこちらの項(ヨーロッパ2”ドイツ’)を反転しているだけ。しかしなぜ? 日本の「哲学者」たちはいつ理解できるようになるのでしょうか?