批判哲学 and 存在論 and 形而上学 の間の無規定で自由な一致で構わないのは、なぜなんだろうか?

 

まだ考えがクリアーにまとまらないのでありますが、理念的な批判哲学 or 存在論 or 世俗化された形而上学の影かというふうにどれかただ一つに決めるというのではなく、ただ、批判哲学 and 存在論 and 形而上学 の間の無規定で自由な一致で構わないと思うのですが、その理由は何かと考えています。 例えば、批判哲学的に、理念の要請から、日本の戦争は人類に対する犯罪であったという構成においてアジアはひとつであるとみなすことができるのではないでしょうか(この理念のもとでアジアの人々は歴史修正主義者が主宰する民族主義の憎悪交換ゲームに絡み取られる必要がないのです)。またここで、多様性としての漢字文化圏という理念的構成から、グローバルデモクラシーを抑圧する帝国的《一的》多様性という自己同一性の教説(大東共栄圏的?)を批判することだって可能に思えるのです。 存在論的にとらえるほうがいい場合が、一つの祭祀国家としての近代化の日本について語るときです。昭和の天皇ファシズムへの道しかなくなったという戦争体制。敗戦後にその戦前との連続性を立ち切ったこの国家が、日本会議が指示するように、再び戦争神社の靖国に拠ることは倫理的に不可能なはずです。存在論的にいって、グロバールデモクラシーの方向性を考えると、市民たちは沖縄的な(または台湾的な)の可能性としての自立した分節化されない世界に拠ることの意味が大きいと思われます。また日本近代が自らの劣った先行形態として排除した江戸時代に展開されたその思想を発見しそれらの意味を新しく考えること、と同時に、日本回帰に絡み取られた昭和思想の方向性を検証し批判すること、恐らくは、ここからしか、市民たちは日本の歴史の経験を積極的に複数性をもって生きること、書くことができないように思われるのです。

 

 

 
 
本多 敬さんの写真
tensor : a mathematical object analogous to but more general than a vector, represented by an array of components that are functions of coordinates of a space.ベクトルは同時に2つの要素を表現できるが、さらに3つ、4つというように増えていったらどうだろう。実はこれら複数の要素を同時に合理的に扱うことのできる数学的手法が、テンソルなのであると説明される。共変テンソルと反変テンソルを掛けることもできて、その外積は、共変テンソルでも反変テンソルでもない、2階の混合テンソルと呼ばれる。(これはなにかすくわれる気持ちになる!ちなみに、ドゥル―ズのゴダール論について書いた論文を読んだら、要するにドゥル―ズはゴダールのモンタージュはテンソルンだというふうに読み解いていることを強調していた)
 
怪しげな素人理解のテンソルについてですが、テンソルはさかのぼると、26歳ぐらいのとき、東京の公害企業の上訴に抗議した座り込みに地方から参加してきた高校物理の若い先生からきいて興味をもつことになりました。その先生の関心を貰ったというか。やっぱり数学が美しいというようなことを感動を込めて称えていたかな。重力波の研究者だったといっていました。たしか反原発運動から応援にきた人だったとおもうが、反原発運動の人たちの間では一番心配されていたのが福島原発のことでした。絵のことですが、8年前のもので、関数変数(x、y、z)のかわりとして「ひらがな」をつかってもいいといわれたことがあって、そうならば、「クジラ」とか「掌」、「渦巻き」とか「月」でもOKでしょうか?それにしてもまあ、われながら変なものをロンドンで描いていたよなあ、当時ちょっぴりダブリンへの思いが起きたときに描いたのかもですね