柄谷行人に問う (2) ー無意識に根ざした日本人の拍手喝采する「文化」に対して、単独者の拍手しない抵抗こそ、9条の市民理念ではないだろうか

柄谷行人に問う (2)

ー無意識に根ざした日本人の拍手喝采する「文化」に対して、単独者の拍手しない抵抗こそ、9条の市民理念ではないだろうか

 和辻哲郎は「倫理学」で、「国民道徳論は根本的に革新されなければならない」としたうえでこう述べていた。「一つの世界は、国民的存在を超えた統一として作られ得るというのみではなく、またそういう統一として作られなくてはならない。国民的存在を超えるということは、一つの国民の存在のなかへ他の国民を同化するというごとく同一次元において統一をはかるのではなく、それよりも高い次元において統一をはかることである。諸国民の文化をそれぞれ独自の性格において発展せしめつつ、しかもそれらの異なった文化を互いに補足し合い交響し合うようにする。そういう多様の統一こそ、一つのの世界として実現せられるべきものなのである。そのためにはあらゆる国民の独自性が、犯すべからざる尊厳を持つものとして、等しく尊敬されなければならない」。ここで一見和辻は多様性の世界を擁護しているようにみえるが、そうではない。「国民の独自性」を強調するからこそ、「国民」から...はみ出してしまう他者たちが今日、ヘイトスピーチの攻撃にさらされているのである。同様に、柄谷行人において、無意識に根ざした日本人の「文化」を強調されるが、和辻的に、再び日本人とそれが定位する日本国家に一生懸命戻らなければならないのか?もし柄谷がどうしても文化のことを言わなくてはならないのならば、無意識に根ざした人類の「文化」となぜ言えないのか?柄谷は自分の考えを代弁していたかのようにカントを引くのが常である。「カントもへーゲルから現実的ではないと批判されました。諸国家連邦は、規約に違反した国を処罰する実力をもった国家がなければ成り立たない。カントの考えは甘い、というのです。」。これを読むと、それならば、「日本から世界に向けられた贈与」を拒む国は、負目という文化人類学的な意味において罰せられるということを前提条件として想定している柄谷などは、ほかならない、ヘーゲルと同じ立ち位置であるとはいえないのか。どうして柄谷は自分をカント的だと思い込むのか、わたしは理解できない。ここまで読んだ人は、ではおまえはどう考えるのかと問われるかもしれない。そこで最後に、この私の考えを述べておくと、無意識に根ざした日本人の拍手喝采する「文化」に対して、単独者の拍手しない抵抗こそ、9条の市民理念ではないだろうか、と、私はそう思っている。前述した、「国民の独自性」をいう和辻に対して言えば、市民理念をともなわない「国民の独自性」は国民道徳の鎖に繋がれた文化のままであろう。

 

本多 敬さんの写真