ヨーロッパ映画・スクリーン・江戸思想 

フランス映画というと、トリフォーの「アデルの恋の物語」なんかが、"突き動かされて"一体になるという愛を、「信」において表現していた。そういう愛をサルトルの哲学本「存在と無」のなかに真面目か不真面目にかわからない感じで小説的に取り扱っているのが面白い。(超越的なものを人において内部化するかしないかの考え方の違いはあるが、)仁斎とか徂徠とかも孔子や聖人と一体となるというのは、"突き動かされて"というところから解釈できるという。ドイツ映画は、ヘルツオーク「アギーレ」の植民地主義者をみると、上陸できないインディオの<土地>を拠り所にした理念がないと"やっていけなくなる"という"やっていけなくなる"エートスがえがかれていたといえよう。フランス映画とドイツ映画の違いは一言でいうと、小説家の娘アデルは愛の相手を認識できなくなるほど信に巻き込まれていくが、騎士アギーレはそういうカタストロフイーがなく漂流する筏のうえで土地台帳をつくるという差にあらわれるのかな?イタリア映画の場合は、「フランチェスコ」のロッセリーニなどが宗教者を描くのが彼らは信について考えていたから。イタリア映画のネオリアリアズムの人間たちにおいて描かれていたように、支配されていようとどうであろうとそれはどうでもいいことで、愛があるかどうかだけが人間にとって大事と主張されているようだ。「映画史」ゴダールが言うようにはギリシャとローマの文学を継承したのかどうかは定かではないが、ただ、イタリア映画そのものが宣長のように、"ぬけぬけ"と生きていた。イタリア映画がなければ、戦後の映画はがハリウッド映画とそれに対抗したナチスの表象の帝国とは全く別の、新しいことをはじめることができなかったことだけは確かだね。

 

 
 
本多 敬さんの写真

スクリーンというのは、たくさんの部屋の入口に通じている廊下。ヨーロッパ映画もスクリーン、江戸思想もスクリーン