ヘーゲルがカントの崇高論について書いたことを参考に大雑把にまとめてしまうと、結局、崇高とは....

ヘーゲルがカントの崇高論について書いたことを参考に大雑把にまとめると、結局、崇高とは無限を表現する企てと言うことができるが、ここでは、現象の中からその内部に沿って(崇高の)表象に一致する適当な対象を指示しようにもそれは無理無理。現象を介してでなければ無限はあらわれないが、だが届くことができない彼方にある氷山と(奥行を遮断する)雲は無限の感情を喚起しても無限それ自身ではない。これに関して言えば、崇高のコンセプトによってうまく説明できるのは、ポピュリスムの近代、すなわち、だれがだれの立場を代表しているかわからなくなるという表象の限界に位置づけられるようなギリギリ輪郭を保っているようでいてしかしその実質が崩壊しているものについてである。ポピュリスムと同じ起源を共有しまたそれと非常に似ているのだけれど、全然異なるものとして、反復不可能な反復という系列のことがある。人間的有限性に規定されているこの系列は人の「道」において無限を生産する。意味を生産していく。だれを代表するためでもなく自分達のほかにだれのためでもないような形で現在まで繰り返される事件の反復、フランス革命からはじまった一回限りの経験の反復。終焉したという世の中を代表しているヘーゲル客観精神ー現在は「礼」といわれるようになったーは、このような無限を見ることができるのものなのだろうか ?

William Bradford 1870

 
本多 敬さんの写真