近代とはなにか? 近代とは禁じられた非対称性

 近代とはなにか? 近代とは禁じられた非対称性。スピノザSpinozaの近代はいかに神は自らを物に表現するかと最初に問う方法にあった。かれの方法には方向性があった。逆の方向から、つまり物から神を問わないのである。同時代のロックLockの場合は、労働から貨幣を説明し始めた。貨幣から労働へ行かない。やはり方法に方向性があり、そこには同時性というものが禁じられている。ここまで書くと、「失楽園」のミルトンJohn Mlton が書いた天から地への降下の意味についてどうしても考えることになる。後に、ドレDoréが与えたいかにもヴィクトリアン的ロマン主義の挿絵をみると、ヒチコック映画「レベッカ」の冒頭場面を思い出す。またはヴェンダース「ベルリン天使の詩」?しかしこれらを構成する一つ一つの実体たちは互いにあまりにも独立しているために決定的ななにかを失わせているようにおもえてしまう。物(鐘)から労働を、貨幣(水溜り底のコイン)から神を投射する反近代に存在したのが、タルコフスキー。(降下とは)反対の方向から、地から天への上昇は、単に降下の否定ではなく、(降下に再び戻らないという)降下とは別のものをつくりだしたのだ。これは天地の間の運動の同時性としかいいようがない。17世紀から、三百年かかったのである...同時性でなければ関係の自立性が成り立たないという思想をえるためには。

 
本多 敬さんの写真
 
本多 敬さんの写真