左翼ナショナリズム

 

Wikiを読むと、大島渚「日本の夜と霧」に描かれていたような、日本共産党毛沢東主義の活動は、左翼ナショナリズムLeft-wing nationalismとして整理・分類されているようだ。わたしにとってはこれは映画を通じてしか考えることのないテーマだったが、ダブリンに行ったとき、アイルランドシン・フェイン党の左翼ナショナリズムの問題について毎日考えることになった。神話(右)かリアリズム(左)なのかわからないような文学作品は、ヨーロッパ近代を超えるという、神話(右)でもなくリアリズム(左)でもなく新しいなにかを表現しようとしていると学ぶことになった。が、政治のナショナリズムの毒から逃れるべく、ロンドン時代は、マルクスとエンゲルはどのようにこの問題を作り出していったのかという問いかけを行うようにした。今日は、左翼ナショナリズムのはずなのにナショナリズムの部分がやたら目立つ言説に出会うと(世の中に売れている人が多いけど)、左か右なのかわからない奴は結局、右なのさというふうに時間節約的にやや紋切り型にクールにとらえることが起きる。最近の日本人の「憲法愛国主義」とか「健全なナショナリズム」に関する話題を耳にすると、近代の「憲法愛国主義」、近代の「健全なナショナリズム」でしかないわけで、そうである以上、ふたたび近代の左翼ナショナリズムの議論の方向に沿って考えることになるのだけれど、どうもそれらの中心には、わたしの思考を止めてしまうような、特異点としての「国家」のブラックホールが存在しているような気がしてならないんだね。例えばそこに、前近代としてネガティブにしか扱われることのない、江戸思想の活発な300年間が隠蔽されているのではないかしら。

Liberty Leading people Delacroix, 1830

 

本多 敬さんの写真Romanticism and Rebellion