タルコフスキー、デュラス、ウルフ、ゴダール

反近代の問題は、タルコフスキーにおいて語ってみたが、本当はデュラスに即して語ったほうがよかった。タルコフスキーは、彼の映画を愛する人々から大地への帰還もどき話に専ら還元されるが、亡命者の個性的な存在のあり方を尊重する思想をもっていたことにもっと注意する必要があると思う。<亡命者>タルコフスキーに対して構成されてくるのは、<国内亡命者>の思想をもったデュラスのあり方だ。デュラスは、植民地ベトナムという国(フランス)の中の国の(自らの姿を隠すような)亡命を回想的に発明しているというか。彼女は映画館の中の闇が自らを隠してくれるということにいかにすくわれたかと思いだす。映画「インデイアンソング」を観てわからんと言ういかにも正統的な観客は、外部性をもって関係の自立性を表現する思想を拒む人達だろうなあ。そういう人たちは、われこそは国と時代と対等な存在であるとする文学に顕著な感性と思考をもつが(そこは一緒)、常にその感性と思考を実体の独立性に戻してしまうという思想に根づいているというか(そこが私と違う)。デュラスの表現は演劇と映画の両方を持っているが、彼らが根付く演劇と私が依る映画との差異が現れるのが面白い。モダニズム的多様性を追求する異質性を表現した作家ウルフ。デュラスはこのウルフの研究者だからウルフ的なモダニズムの方向に沿って理解される可能性もある。(近年はポストコロニアル世界のフェミニズムにとって意味をもつようなウルフの読み方が現れているとのことだが、モダニズムの読みは女性原理のデュラスという読みに反発するだろう。)ゴダールのデュラスということになると、別の話。ソーシアリズムの同志であり、その批評精神から、人間の平等観をつくっていく同一性の方向が展開されている。(ウルフの「波」Waveにはそういう同一性の方向が限定的に展開されていたかな?)

 

 

 
本多 敬さんの写真ゴダールタルコフスキーの両方が好きな人が非常に多いというのは他の国ではありえないことだが、この国の文化人の特徴だよね。ただし「ヌーベルヴァ―グ」のゴダールタルコフスキーを非常に意識していたことは明らかだよね。