フーコのマネ

Art for Art's sake

たしか、蓮見重彦フーコーの本のちょうど真ん中に鏡があると言った、というか、言ったままだったから、それが正確には何を意味するのかは今日迄わからないままだで、私の読解力の無さに依ることだが、兎に角彼が指示したその真ん中は、表象の言説の時代の〈最後〉と、欲望の言説の時代の〈最初〉とが交差する場所。近代において欲望の言説が全面に現れてくると、古典的な表象の言説が背後におしやられることになったが、表象の言説は古典時代の舞台から近代の舞台へと場を変えてみずからを完成することになった。つまり再構成する課題をもつのである。表象の意味が未来に向かって思い出される(例えばサイードのオリエンタリズム」の仕事をみよ)。クールベやミレー(下)は、マネの絵(下)と共に、語り労働し欲求をもつ人間を対象とする思考のイメージである。そうであれば、これらの作品がフーコーの本の前半に言及されることはなく、その後半にしか言及されない。定義の問題だが、それらはそもそも写実主義という語でまとめられるほど写実的か?芸術至上主義の入り口だったことは確かだ。マネの「草原のピクニック」は、フーコーの後半にその場所をもつのである。ロマン主義から印象派の間に位置するのであるが、ゴダールが映画はこのマネから始まると語っているのは大変気になる。このとんでもない映画の起源をいう言葉に私は翻弄されてきた...

 

本多 敬さんの写真
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