ルソーの一般意思

丸山真男なんかをいくら読んでもわからなかったことですが、荻生徂徠などの思想(「弁名」)に、政治神学というか、社会契約的観念があったことが指摘されていています。これは私の江戸思想への最初のアプローチでした。「一般意思」といわれると、色々な場面を思いだすのですが、公害企業前の座り込みのときもうこれを止めるかどうかという決定ですね。これは全員一致によるものでしたから全然決まらないのです。必ず一人、二人は違う意見をもつので、いつまでも決めることができないが、効率はめちゃくちゃ悪いが、そのかわり強力な団結というかそういうものに支えられました。内部での疎外感はありません。このときはセクトではない市民運動全共闘世代なんかが結構いたので、一般意思へのこだわりだったかどうかは正確にわかりませんが、非常にルソー的だったことにいまさら気が付きました。ルソーは、飾らない実直なといわれるスイス人としては珍しくないのですが、演劇というものを嫌っていたようですが、劇団というのは非常に一般意思の世界ですね、詳しく述べられませんが、外部から影響を受けない共同体の独立ですね、あれは強力なものです。最近は、訪ねたスイスで知って驚いたのですが、こんなすすんだ国でなんと女性の普通選挙権が1970年代までみとめられていなかった事実がどうして起きてしまったかについては、(女性はここでは参加できた)国民投票の一般意思としてもつ意味の過大評価、と同時に普通選挙(個別意志?全体意思?)の過小評価があったからだと説明されます。最後に、ご存知のように、現代思想では、ルソーの一般意思の評価がよくないですが、実際にルソーを学ぶラジオ番組でスイスの(移民排除の)ナショナリズムに結びつけられて語られていたのを思い出します。大まかにいって、デリダは、(マイノリテイー排除の声)ファシズムの声を読みだすほどでした。ただそれはヨーロッパでの問題ですからね、私は日本におけるルソーの理念的な可能性を擁護したいですね。ippannishi を自分達のものにしていく努力というか。「われわれ」というときそれはたぶん一般意思の「われわれ」のことで、自身の日本ナショナリズムにたいする抗議と同時に(他者を排除する)近代というものへの抗議、それによってなんとか可能となるような、アジアの人々への共感をともなった「われわれ」、江戸思想から発言する「われわれ」ですね(いつもそう願っています)