映画史とは何か - 「去年マリエンバード」(1961)

 映画史とは何か

パリのシネマテックの映画館に毎日4年間通って大学の代わりに学んだというひとも、ダブリンのアイリッシュフィルムセンターにいた。現在は、(イギリスの国民投票のときに問題とされていたが)、EU基金で運用されている。ここは元々クエーカ教集会所であったという。徴は至る所に。分かる人には分かるらしく、天の方向にその建築的痕跡があることを教えてくれる人もいた。さて映画というものが、ポストモダン的に再定義されてくるのは1970年代後半からである。クローズアップとは何か?パンとは何か?映画術とかそれを前提にした映画哲学によって論じられることはあっても、歴史の感覚をもって語られることはそれまではなかった。表面を観察する映画史は、映画の(偽)起源に、ルネッサンスの顔を描く水平方向の精神を指示する。それはゴシックの垂直ヒエラルキーを表したアートを脱構築した多様性の方向であった。だが映画史はそれに尽きるのではない。ドウルーズのシネマ論がもっとはっきりさせるべきだったと思うが、1960年代の「去年マリエンバード」の事件性は、水平方向の異質性を消費する運動から、外部性を保つために、天地間の同一性平等性を生産する運動への転換という意味に求められる。パンあるいは、アングルとフレームがモンタージュをシュミレートするという作家的批評の実験精神にともなわれて表現された、水平運動と天地間の運動との関係は、異質性と同一性の関係として、70年代のデユラス「インデイアンソング」、80年代ゴダール「パッション」によって問題提起されることになった。私のスクリーン人生で見た全ての投射を統括すると、それは存在論的実体の独立性の解体、言い換えれば近代の解体の投射である。君のスクリーン人生で見てきた全投射を総括せよーただしそのときでも映画史が(空間に限定される定型化された)身体運動の歴史から、(時間に限定される非定型の)思考の歴史へと成長していくそのプロセスのことを忘れるな

 
本多 敬さんの写真