小池百合子の「病み上がり」発言はどう考えていかなければならない問題なのか?

小池百合子の「病み上がり」発言はどう考えていかなければならない問題なのか?

 

トランプとてそれほどの酷い言葉を一度も口にしていないかもしれないのにとおもうのですが、選挙のときになればトランプがなにを言っても許されるし同等の資格で自らも罪無しと小池百合子は開き直っているようです。しかし「病み上がり」の内容は、小池が自分に都合よく解釈するように恣意的なもの。むしろ問題は、「病み上がり」と<言う>その行為にあります。問題は、小池が「病み上がり」と名指すその行為によって、名指された人が罰を受け社会から排除されてしまうという恐怖にあるのではないでしょうか。だれでも「病み上がり」となり得るのは、ナチスが台頭してくる時代にだれでも「ユダヤ人」とラベル張りされる可能性があったこととおなじです。「病み上がり」と小池から名指された者は、考えることができないから社会にかかわるべきではない、と、小池によってはじめて言われることになったこの言説の権力の問題を問うべきです。そしてわたしたちは小池のへイトスピーチにたいして怒りをもって抗議しましょう!

 

小池百合子日本会議の関係について知らない人がどうも多いようですね。たしかに大新聞は報道しないし、また報じようとしても日本会議が何をしようとしているのかを掴めないままなのかもしれません。安倍応援団の日本会議神社本庁と伊勢・靖国神社に、救済神学的な文化的一体感をなんとなく感じはじめるようになった大衆は、自民党の信教の自由を奪う改憲に反対しても、野党に投票しようとはしないでしょう。アベノミックスが自分達の生存にかかわる次元で格差と貧困を拡大再生産していることを理解しても野党共闘に投票しません。例外なく自分達の問題であるから、小池の病者への差別に憤りそれに反対しても、野党統一候補に投票することは起きないのかもしれません。考えたりしているといつか裏切られていることに気がつくことになるでしょうが、しかし、なんとなく一体感を感じているかぎり、いつまでも反証の精神が目覚めてきません。