"A terrible beauty is born" それを理解できたのは、「莫春には、春服既に成る。冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風して、詠じて帰らん」を解した徂徠の注釈を読んだとき

"A terrible beauty is born"

国家のおかげで政治的な動物は自らを代表する言葉を獲得したと反復的に憲法の起源を指示する教説は狂気としかいいようがない。この教説のもとに隠蔽されるのは、言葉で自らを語ることが不可能な暴力だけではないはず。詩人の天を彷徨う言葉としてしか解されなくなった革命の魂も、隠蔽されるのだ。だが、国家なき人間は、仕方なく放りこまれている世において狂気とみなされるこの二つのほかに何を語るというのか?イエーツの詩を思い出す。"A terrible beauty is born" それを理解できたのは、「莫春には、春服既に成る。冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風して、詠じて帰らん」を解した徂徠の注釈を読んだときであるけれど。論語の言葉と徂徠を訳して解説した子安氏の言葉をひく。「私は暮春のころ、すでに成った春服を着て、すでに冠した青年五、六人と、まだ冠せぬ少年六、七人とともに沂水に浴し、舞雩のほとりで風に吹かれ、歌を詠じて帰りたいものです」。「志をいう言葉がなぜ微言(辞書によると、微妙な、奥深い言葉、内緒話、それとなく遠回しに言うこと)になるのか。なぜその言葉は詩でなければならないのか。徂徠は時をいう。革命の秋ではないからである。また徂徠は位をいう。制作者の位置から遠く隔てられてしまっているからである。そのとき志をいう言葉は詩となり、微言となる」(「思想史家が読む論語」より)