「人の外に道無く、道の外に人無し」

「人の外に道無く、道の外に人無し」は、伊藤仁斎によっていかに読まれたのか、そしていかに書かれたのか。この「人外無道、道外無人」は、朱子の「論語集注」に確認できる言葉だという。17世紀の伊藤仁斎はこれをいかに読んだのだろうか?近代的文献学のオリジナル重視の方向のみに行くと、あるいは解釈学の多義的派生重視の方向へ行くと、朱子的存在論に根をもつか、近代の制度化された人間に根をもつことになるだけだった。これらの独立したものに絡み取られないために、仁斎はどこへ脱出するのか?ここで『童子問』成立過程を追った子安氏の資料を利用した分析を読んでみた。「元禄六年(1693)、ときに仁斎は六十七歳であった。しかもなお彼らは自分の思想をどのように言葉の上に定着させるかということに、執拗な努力を傾けているのである。」(『伊藤仁斎の世界』2004、p.156)、とある。「人外無道、道外無人」という同じ文が中断を伴って繰り返し書かれる、と同時に、一回一回の編集(訂正・補筆・付箋)を通じて意味がつくられていく。仁斎の読みの画期性は、漢文のリフレーンのうちに朱子形而上学に再語り的に絡み取られるのではなく、ここから、理念の要請を読み取ったことにあった。なおそこに可能性としての形而上学の避難地が権利としてあるとみることが無駄ではないとおもうのは、平等性・同一性の哲学のあり方が今日ほど重要となってきた時代がないとおもうからだ。さてそうして、仁斎の思想と言葉においていかに、同一性と差異性が互いに自立的関係を保って同時に働いていたか。わたしはかんがえてみる。<多>(差異性)の根底に<一>(同一性)があるのではなく、また<一>の根底に<多>があるのでもない。一元的に限定された存在論的実体の独立性でも、多元的に限定された存在論的実体の独立性でもない。そうではなく、開かれた外部との関係においてだけ<一>と<多>とが同時的に成り立つことに意味がある、と。ヨーロッパに限らずグローバル的に危機の時代といわれる17世紀東アジアの近世からこの思想が京都の古義堂からはじめて現れることになった。この思想は、必ずしも形而上学の同一性の存在論をゼロにしてしまうものではないないこと、ゼロからはなにもどんな理念性も意味を持たなくなるから。そして思想は量的な観点に立てば普遍主義が唯一に存在するのではないこと、かつ、質的な観点から言えば同時に成り立つそれらの普遍主義がそれぞれ多様性をもっていること...

本多 敬さんの写真