「言葉と物」のコンパクトな世界 No.1

「言葉と物」のコンパクトな世界 No.1

「すべての“明確な”知識は科学に属し、明確な知識をこえる事柄に属するすべての“独断”は、神学に属している、と私は主張せざるを得ない。しかし神学と科学との間には、この両方からの攻撃にさらされている無人境がある。この無人境が哲学なのだ」。このラッセルの言葉から、科学と独断は構造主義マルクス主義に対応させた上で、フーコのポスト構造主義の哲学的な立ち位置を考えてみたりしてね。哲学者というのは、物論論的言って魂は消滅すると考える。世界を理念によってコンパクトに覆いつくすこと。死ですら観念化するほどのかれの世界思想にとって問題なのは、魂が定位することになったその理念をわれわれのものにできるかどうかという問題。ただ人間の自発的な努力によるということ。哲学者の科学者と神学者との差異だね。コンパクトというのは何かを知るには、渡辺氏がつくった用語と人名リストをみるだけでもいいよね

(参考)

 
本多 敬さんの写真
本多 敬さんの写真

 

 

 

・科学者ー>不動点が存在しなければ、Sの全体をSの境界へ写す写像は、必ずどこかで破裂する、一方もし関数が連続であれば破裂できないのだから、Sには不動点が存在しなければならない。この前提として、コンパクト集合が要請されるということ。つまり無限個の元からなる集合であっても、位相eを通じてみると、有限個のまとりからなっているという周密なという感じね。

神学者ー>本質的に魂は連続している

問題は、人間を排除する王の場所にあった。不動点のような王の場所があるとき、人間が再び、自らを排除したその王の場所をとることは、倫理的に許されないし不可能なことだろう。それでは、見られる多から見る一へ移行しただけで、構造としては何の変化も起きなかったということだ。そして人間はこの一の場所からは、一しかみえない。多がみえる保証もない。恐らく他を見ることができないだろう。仮に、一である自己を含めた多をみることができたとしても、そこに外部性をともわなければ意味がないのである。ヴェラスケスはそういう外部性に立つ人物の内部を見る姿をさりげなく描いていた。なんという悍ましい光景。顔をゆがめているー再び、排他的<一>に過ぎないような、世界帝国的な<一>的多に対して

 

 

  
 
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