チェーホフが取り組んでいた文学者=知識人の問題をいかに大衆社会の現在に伝えるか?

チェーホフ「かもめ」のセリフで「古い形式か新しい形式かということではなく、人間か書くということが問題なのだ」と訴えていた言葉があった。心に響く。マルクスの言葉を考えた。「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である。」つまり人間にとって意味があるかどうかなのだ。演劇は常にこのことを問う。

舞台というのは、人間の考える能力、行動したり感じたりする能力に人間的意味を与える場所だとあらためて知った。

人間は人間自身でないもの、例えば歴史修正主義者の国家理性とかかわることもできる。実際に国家理性は大衆の浮動票に依存している有様だ。だが国家理性から遠く離れて、人間がラジカルになるのは人間が人間自身の能力とかかわるときだけである。

チェーホフが取り組んでいた文学者=知識人の問題をいかに大衆社会の現在に伝えるか?彼は隠蔽されている大衆の暴力を描いていたという。ふつうのありふれたひとがふいに日の当たる場所に引き出されたときに、野蛮に共同体からスキャンダルな存在として非難され排除されるのかを描いている。

「かもめ」のなかで、「私たちの時代が終わってしまう」と誰が語ったか?それは演劇自身が直に問いかけてきた言葉だ。演劇というものは、<国内亡命>に近い概念を持っていると思う。大衆から隠遁して他の道を生きようとするだけではない。時代と国と対等な自己のあり方も再構成することを決してやめないからである。壁をいかにbreakthrough(穴をあけていくか)するか、超えていくか?いかに生きるかという問いといかに書くかという問いとが、互いに離れない問題提起として演劇において存在する。

 

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