「いやしくも美に関する判断にいささかでも関心が交わるならば、その美学的判断は甚しく不公平である」というのは何故か?

「いやしくも美に関する判断にいささかでも関心が交わるならば、その美学的判断は甚しく不公平である」というのは何故か?芸術の場合は、悟性は快・不快と結びつく対象を考えることができない。感性によって与えられた対象を考えるという関心が科学において成り立っていても、芸術のところでは成り立たない。美学的判断は対象の実在性の表象も関心もないのだ。例えば、トリゴーリンは自己が作り出した「美」についニーナが大きな「関心」をもっていることを告げるとき、彼女にたいして抗議するかのように苛立つが、ここにチェーホフは美学的判断の問題を表現していたのではなかったか。「かもめ」と「湖」が其々、「関心」と「美」に対応するとすれば、「かもめ」は撃ち落とされなければならなかった。2016年、再びトレープレフが撃ち落としたかもめとは「美しい日本」ではなかったか?