チェ―ホフとはだれだったのか?- 方法としての演劇

チェ―ホフとはだれだったのか?- 方法としての演劇

「言葉、言葉、言葉」、と、作家志望のコスチャは苛立ちをもってシェークスピアの言葉をひく。戯曲の存在は演劇にとって不可避な理性のようなものである。演劇は、映画カメラが経験世界とらえるように、言葉によっては十分にとらえきれない生き生きとした世界を迫真性をもって提示することが不可能なのだろうか?戯曲=理性=言葉の演劇の限界をみる人もいる。だがその映画も俳優を必要としてきたのである。映画は演劇なくしては成り立たないことも事実だ。まだどうしても演劇がなくてはならないとしたらその演劇にはたしてなにが残るのだろうか?こうして、21世紀の「かもめ」は、演劇の理念を問うこの探求をもつ、と、私はかんがえる。
第1幕で上演されるコスチャの劇中劇はシェークスピアを喚起するものだ。この劇中劇を絵画フレームの中の絵画フレームとして構成している。ベラスケスの絵画・ラス・メニーナス(女官たち)を思わせるような奇妙な配置で、人物たちが傘をさして観客に相対する。観客として舞台前方に横に並んで座っているこの彼らの背後に、喪服のような白のベールのスクリーンが現れる。「人も獅子も鷲も鸚鵡も、生きとし生けるものはみな、悲しい循環を終えて消えてしまった。もう何十万年もの間、大地は生命を宿すこともない…」。コスチャはこの「循環」を復活させるつもりだろうか?だがなにも投射されないスクリーンを切り裂いているだけだ。まるで何も書かれていない白紙の本を書いているようである。途方にくれる、われわれ観客が目撃するのは、裂け目としての<不可能な循環>の痕跡しかない。
と、いきなりこの舞台は私に、「自転車の車輪」(1913年)のイメージへ連れ出した。「自転車の車輪」はデュシャン初期のレディメイドで、椅子の上に自転車がさかさに立ててある。これとまったく同様に、椅子の上の役者たちが失われた連続性への郷愁に侵入していくのを私はみたのである。存在の孤独と非連続性とを、一つの連続性の意識に代える欲望としての侵入というか...。椅子の上のアルカージナとマーシャの肉体を指示した欲望の線は、トリゴーリン(生計を立てる真面目な労働)とメドヴェージェンコ(家庭)の捕獲から逃れる。それだけではない。ポリーナとドールンの聖なる欲望は聖なる欲望はシャムラーエフ(国家)の監視からなんとか逃れようとするのだ。最後にコスチャの心情の欲望はビクトリアン朝消費社会のコピーとなったロシアの捕獲から逃れることになるだろう(生命のためでない遊びへ行った?)。
「自由に喋らせてくれ!」。これは戦争法案の強行採決あと、戦争法案に抗議してきた若い女性たちにたいする激しい非難が起きたときに、彼女たちから言われた言葉である。これと同じ方向で、「生きたいと言っているのに!」という言葉は演劇の世界ではじめていわれたと私は考えようとおもっている。この言葉はそれまで一度も言われたことが無かった、言い換えれば、いままで一度も存在しなかったということとして。そういう意味で、「壁なき演劇センター」主催の演劇集団ア・ラ・プラスによって、チェ―ホフ「かもめ」がはじめて上演されることになったのである。ベトナム公演に行くという。もう一度コスチャの言葉を引く。人も獅子も鷲も鸚鵡も、生きとし生けるものはみな、悲しい循環を終えて消えてしまった。もう何十万年もの間、大地は生命を宿すこともない…」。たとえ大地は生命を宿すこともなく決定的な循環がなくとも、絶望の淵から巻き返していくという、生きたいと願っている人々によって世界演劇の絶えず再構成されていく理念-方法としての演劇- を称えよう。

 

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