8月15日の意味を考える

8月15日の意味を考える

自己の主観を客観的とみなす誤謬を避けた上で、全人類の他者の立場に自己を置くという公的感覚の先験的場所を、ぎりぎり理念的というか、いや絶対的必然という意味でもはや理念の要請といえなくとも、少なくとも可能性として認めなければ、民主主義から現れた全体主義的包摂にたいして抵抗できるか?たとえその可能性をみとめるとしても抵抗しきれないかもしれないのだ。人間の有限性の分析からは、理論破綻するかもしれないが、その可能性を言うほかない。この私は全人類である、と、たった一人でも全人類として、喝采を拒むこと、(私と人類の間の自由で無規定な一致とて)、この判断力を放棄してはならないこと

 

 

参考;共通感覚という名でもって、ある公的感覚の観念が理解されねばならない。それはいわば自分の判断を総体的人間理性と比較するために、反省において他のすべての人々の表象の仕方をアプリオリに顧慮するような判定能力である。・・・このことは自分の判断を他者の現実的な判断でもって計るよりは、むしろ他者の単に可能的な判断でもって計ることによってなされ、また自分自身の評価に偶然に影響する種々の制限を、単に捨象した結果として、他のすべての人々の立場に身を置くことによってなされるのである。(カント、判断力批判