Kant No.5 - カントとニーチェ

英語のカントなんだけれど、欲求能力は、昔買った本の中でこう訳されているな。The faculty of Desire is the being's faculty of becoming by means of its ideas the cause of the actual existence of the objects of these ideas 存在者が、かれの表象を介して表象されている対象を実現する原因性となる能力、というような直訳、たしかこんな感じだと思う。例えば、表象された対象を実現した喜びのことを思いえがく。言葉遣いが難しいけれど、(実践理性が道徳性を人間に与えるのに)、この欲求能力が、「各人は、自分自身を幸福にするために努力すべし!」という風に、実践理性の真似をして(主体が自身に適用する)行為の格律を自己立法化してみせる例は中々読ませる。欲求能力は自らを超えて実践理性の役割を勝手に行うとも読める。同様に、「第一批判」では、理性が自らを超えて概念の役割を演じることの問題が指摘された。「第三批判」の崇高論では、(構想力と理性が互いにネガテイブに反発しあ...うとみえるが)、構想力の根底に理性があるというか、構想力が理性の役割を演じることがポジティブに分析されているように読めなくもない。「趣味判断」を読むとき、ここで、いかに、構想力と、(悟性そのものとしての)悟性能力とが、諸能力の自由で無規定な一致として一致するかという分析に驚くだろう。そもそも最初から、<悟性><理性><構想力>をそれぞれ、定義すること、表にし分類してしまうというような近代知に顕著な体系化・中心化の無理があるのかもしれないと気がつく。カントの建築術の崩壊を怖れるよりも、ここから「物自体」の力への意志を新鮮に考える。ニーチェはカントを多様性, 生成, 偶然の思想としてし読んだ。ポスト構造主義によるニーチェとカントの読み直しが、1960年代の近代を問い直す運動の展開を通じて行なわれたが、このことが思想史にもった大きな意味をあらためて説明する必要もないだろう

 
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