「公共的なもの」とはなにか

これまで公共放送は、多様性の時代に関心の異なるあまりに多くの「みなさん」を同じ方向に満足させるという困難に直面したとおもうけど、今日の問題は、この方向とは正反対に、あまりに少ない「一人」を満足させたいという無理にあるようにみえる。被災地すら利用する美談が次々に。「言論の自由」の外国はこの種の欺瞞をよく知っているが、ただどうしても理解できずに当惑してしまうのは、どういう嘘によって東京五輪の開催が決まったかを忘却しつくした人々だけが喝采する政治の芸能化、ドラマ缶スーパーマリオンの無意味なパフォーマンスである。公共放送は、なにゆえに「公共的なもの」と名指されているのか?この問いの原点に帰れと願う。「公共的なもの」とは何か?(これが罠なのだが、正義とか人権に関わる領域ではないからという理由で)現状肯定的に、ほかならない、「一人のみなさん」(一でしかない<一的>多様体!)さえ満足させれば十分だと大いに確信するときでも、このときだからこそ、自己の立場を人類の立場に置くことによって、狭すぎる「国威発揚」の不合理的従属から自立していくあり方を想像することができるかもしれない。だがもし放送局がやってくれないならば、一人一人がその立場を自分達のものにするしかない