アイルランド映画を読み解く -ニール・ジョーダン「ブッチャーズ・ボーイズ」

ニール・ジョーダンは映画「ブッチャーズ・ボーイズ」のなかで、札つき少年の凄い幻覚を描いていた。この少年は自然誌に紹介されるような地球の裏側にいたといういかにもステレオタイプの赤毛の男の子。アイデンティティの政治が極端に行く50年代。貧困は解決されない。餓死を恐れて国を出ていく者たち。国に残っても、仕事が無い父親は競馬の賭け事かテレビをみているしかない。少年の父親はインデイアンを追跡する西部劇をみながら騎兵隊のラッパを吹く(インデイアンというのはアイリッシュのヒーローであるからこの場面はなんとも屈折したアイロニーだ)。ある日マリアの声をきく奇跡が、施設に送られたこの少年に起きる。そして少年はアイルランドの山が核爆発するのをみる。メディア研究の先生が解説していたのは、現在は忘却されたか、思いだされてもタブーなんだそうだが、50年代の貧しいアイルランドは自らをこの韓国に重ねていた時期があったことを知らないと、この少年の幻覚の意味がわからないと言っていた。それから朝鮮戦争とか冷戦時代の核のオブセッションのことに言及。またこの先生は監督と共に、「崇高」論にたいする批判を共有しているということもわかった。そもそもこの「崇高」と何か?思い出すと、アイルランドの風景に崇高の念を抱く人々はアイルランド文学なり演劇の意義を十分に理解していた人たちだった。私が風景に感動を覚えなかったのは、私に「知」がなかったからだと気がついた。文学も読まない現地のアイルランド人は風景に崇高を感じていたようには思えない。彼らはナショナリズムと区別がつかないような宗教的感情をもって風景を自分達のものと感じていることは確かだ。だが少年はそこにいたのか?わたしはいまなお、この映画が伝えたかったことがわかっていない