「言葉と物」のコンパクトな世界 No.6

「言葉と物」のコンパクトな世界 No.6

 

1、近代というのは、思考可能性と思考不可能性との間の距離を最大に価値化づける。近代主義者は(引き離すと同時に繫ぎとめるという)距離フェチシズムである。近代は思考不可能性からの差異化によって自らの正当化を反復するとき、前近代というラベル貼りした対象を利用する(なにもかも近代の産物であり、その前近代も例外ではないのだけれど。前近代は近代から借用しなければ成り立たない言説の寄せ集めでしかないのになぁ。勿論近代主義がなにかの目的の為に必要とされていたときにそこで前近代に対する批判にそれなりに妥当な意味があったことは確かである。)

2、その近代が定位する普遍西欧から自立する直接性・外面性・個別性を西欧内部にとどまりつつ思考するのが脱構築ではないか。そして私の理解では、近代から独立していくのは反近代の思考なのである。近代・脱近代・反近代のテーマをアジアに適用するとどういうことがいえるか。断片的知識しかない私にそれを十分に考える能力もないが、大まかな考え方の枠組みでも後年のためにメモとして書き記しておこう思う。ここで...は、ただし文化大革命については、天皇の場合と同じように、神話化される危険とその弊害のことに鈍感ではいられないだろう。
3、さて歴史発見みたいだが、ただ日本近世がいかに朱子学を批判して独自の学を獲得していったかを学んでいる者として、東アジアにおいて近代化を推し進めるのが、近世「官僚」の知識人化した儒者達だったことは、大変気になる歴史である。例えば「中体西用」は、中国、清朝の洋務運動の基本思想で、中国の伝統的思想・文化・制度を根幹にすえ、運用の面では西洋文明の科学技術を導入しようとする考え方だ。しかし、やや図式的説明過ぎるかもしれないが、近代化への道は毛沢東主義という名の反近代によって切断されてしまうことになったのではあるまいか。そういう意見をきいている。そう考えることができるだろう。だからと言って、現在の中国は近代でないと考える必要がないだろう。ヨーロッパのジャーナリズムからは「マリリンモンローとマオとのポストモダン的結婚」と揶揄される現在の過熱する消費社会は、後期資本主義の近代を体現している形だと考える。(ただし中国の「独自」の近代が清朝に遡るという最近の国策的ポストコロニアリズムの影響下にあるアカデミズムの説を支持するものではない。国民国家という意味での近代国家の「近代」はフランス革命の前には存在しなかったのだから、その近代国家としての成り立をフランス革命より前の明時代に生じたという説ー今後出てくるかもしれないが-も疑問。)

Dans le cogito moderne、il s'agit au contrare de laisser valoir selon as plus grand dimension la distance qui à la fois sépare et relie la pensée presented à soi , et cel qui, de la pensée , s'enracine dans le non-pensé (Foucault)
近代のコギトにおいては、(デカルトとは)反対に、問題は、自己にたいして現前する思考と、思考のうち思考にあらざるものに根づいている部分とを、引き離すと同時に繫ぎとめる距離を、その最大の規模において価値づけることにある。(渡辺一民訳)