サイードにとって亡命が意味したのは?

80年代・90年代は、後期近代のグローバル化が問題となってきました。啓蒙主義批判とともにポストモダンの言説によって知識人の意義が周縁化されてしまったのですが、サイードが行ったことは、新しい権力(言説)にたいして知識人という理念をいかに再構成していくかということ、その場合、非西欧世界に生きる知識人の亡命的生存を問題提起したことです。ファシズムからの国外亡命の例を参照することによって、方法としての国内亡命の抵抗ー国と時代に対等な自立性ーを初めて言った、と、読めるのではないでしょうか。ここから方法論的に、従来国家の視点からしか論じられることがなかった難民・移民・外国人を不可避な他者として考えることになりました。彼らから離れることなく知識人が拠り所にする普遍主義をどのように再構成していくか?アドルノについて分析している所でアドルノが語らなかったことを書いています。つまり、亡命のために取り戻すことができない、と同時に、亡命だからこそ取り戻すことができるということ。自己自身という場所にいる故の特権と、(特権が奪われているとみなされるが)自己自身という場所の外にいる故の特権。少なくとも、サイードの普遍主義は、「帝国の構造」が物語る「世界史」の風景の部分、あるいは統制の対象ではあり得ないと思います。

 

Ce dont Adorno ne parle pas, en revanche, c'est des plaisirs de l'exile, ce ce qu'il apporte sir le plan de la différence et de l'originalité des modes de vie et des points de vue: tout cela qui stimule une vie d'intellectuel, quand bien même sur fond d'anxiété. S'il est donc vrais de dire que l'exile est un état qui caractérise bien l'intellectuel en tant que marginal, vivant en dehors des conforts du privilège, du pouvoir et de la sécurité d'être <chez moi> , il est aussi très important de souligner que cette condition n'est pas toujours sans récompenses ou privilèges. (Said)

 
 
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