感じること・考えること・書くこと ー明確な境界線と曖昧な境界線の間で

「文学に現れたる我が国民思想の研究」(全四巻)は厳密な古典批判を行っている。(「厳密」というのは一応、脱神話化したというような意味。)この著作が出版された年1916年は、アイルランド独立の契機となったイースター蜂起Easter Risingの年でもある。1916年の意味を考えるために、この津田左右吉の仕事を読み始めた。彼の著作は思想史講座で扱う。後日の為に、岩波文庫で現在は八冊となっている最初の一冊を読み終わった所、纏まりもないが一応感想のようなものを書き留めておこうと思う。津田がこれを書いた大正という時代背景に鑑みると、いかにも国民精神が自らのコスモポリタ二ズムに対するナイーブな反発を綴っているようにも読めたが、ただしそう単純なことに尽きることではないだろう。ここからは新しい読みはない。むしろこの本に書かれている、明確な境界線と曖昧な境界線のことを考えることになった。最初に、明確な境界線について言うと、貴族は世界を創造できないと繰り返す津田の貴族に対してとるこの距離はブルジョア的な内容のものである。他方で民衆の側に立つ身振りをとりながら、自己の仕事からは、文学というスクリーンに日本思想を映し出したという十分な確信がないと述べている記述がやはり気になる。冒頭で、自らの不完全な思考に関して津田は残念に思うと述べるが、かれの思考が不完全ではなく、むしろ完全だったからこそ、日本思想と民衆との間の完全な統一などは成り立たないしそこに国家の基礎をみるような企ての無理を明らかにしてしまったのである。これはアナーキズム的というほどではないかもしれないが、反ブルジョア的な観察に属する批判であると思う。こうしたことが、やや図式的だが、ブルジョアと反ブルジョアという明確な境界線に立つ立場と考える根拠である。
だが思考に占める曖昧な境界線も存在する。貴族的なものに対する失望は、これを補うような、"借り物"の文字に依存することのなかったと物語られる所謂遥かなる過去への期待が津田においてまったく存在しなかったのか。例えば国民精神の大嵐は貴族の狭い庭では活動できない。大地を掘り起こしていけば国民精神の民衆が存在していたと鼓舞されたことはなかったか?だが「民謡」に求めるべき答えを出すとき津田のその卑近な読み解きに痛い期待ハズレ感を味わうことになる。だが文字のほかになにもない知識人の、文字なき共同体への曖昧な同一化がここには存在しない。脱神話化の姿勢というか、彼の妥協しない姿勢を読みとれるのである。(いくら曖昧な境界線に共感をもっていても、)書記行為からしか思考できないということは津田にははっきりしている。ただ書記行為のうえに"借り物"でない本物のオリジナルの国家を打ち立てようとするならば、その劇場はあまりにブルジョア的ではあるまいかという疑問がこの私に残る。
結局、津田は自らの思考を完成させるためにどこに立つのか?明確な境界線と曖昧な境界線の間にまだ開かれて可能性があるとしたら、それはなにか?思考が定位する諸々の理念に、距離の空間が与えられる。津田のの思考とは、ブルジョア的理念から反ブルジョア的理念へ行き、反ブルジョア的理念から再びブルジョア的理念へと帰っていく、ただし同じことが繰り返されないというどこの理念に属するが(関わるが、)決してその部分にはならないという迂回の思考である。結局、問題提起のほかになにも実体的なものを語ることができないのだ。「民族」・「国民」・「日本語」の戯曲を作りだす思想とそれを演じる役者と、「民族」・「国民」・「日本語」という観客との間に区別がないという思想の舞台を発明するとしたら、それは「中国文明」・「朝鮮」・「漢字」から独立した思想の<同一性>のための
舞台でしかなく、ここからは文化の古い地層という幻想に絡み取られることだって避けられない。それに対して、津田にとっては、「民族」・「国民」・「日本語」も「中国文明」・「朝鮮」・「漢字」も一体のものである。それらは互いに切り離すことができない。例えば「万葉集」について言及するときは、そこで他の文明からの<自立的差異>を読み解いた。他の文明からの独立を証明したのではない。ただし津田がどうしても問題にしなければならなかったのは、「万葉集」からなんとかギリギリの自立の精神を読もうとしてもこの自立にはあまりに「公共的なもの」がともなっていなかったのである。大正時代のこの裏切られ感も、実は津田のテクストに理念的なものを付け加えるものとして読み解くことができるか。植民地主義に絡みとられていかざるを得なかった近代日本国家にたいするアンチテーゼとして読めるか。西欧の植民地化から免れるために国家権力を集中させた体制ー日清日露戦争という他者を自己の目的の道具化にするような形で中国と韓国を犠牲にしたブルジョア新国家の軍国主義ーから自立できる理念として普遍化できるものとは何?テクストは問題提起しかない

 

自動代替テキストはありません。