Bouche de Vérité 「真理の口」

Bouche de Vérité 「真理の口」

 「真理の口」は即ち「権力の口」。権力というものが解釈に依存する現代においては一層そうである。この「真理の口」にたいして、対抗的に、ネットは、政治の領域にむかって、<いつ?><どれくらい?><どのように?><だれが?>と言うことをやめない。<何?>と問う言葉が極端に欠乏していているが、思考はこうしてしか世界を発明できないからだろう。(相対主義の病に肩を竦める言説家も、相対主義の言説を非難するとき、それが<いつ?><どれくらい?><どのように?><だれが?>成立させたかと問うているではないか。)明らかに、現代の「自然の口」が物語る真理は自然とするのは屈辱的な楽観主義である。だが古代から真理は自然であることは一度もなかったのではあるまいか。(今日一層陰険に、歴史修正主義者の「真理の口」が政治は文化であると言うようになってきたことに注意しよう。)真理は思考と世界の間の揺れ動く関係においてしか存在できないのである。。「真理の口」の近代はこのことを教えるのである。「論語」の政治を問う言葉も例外ではないということをおもう。この原初的テクストに関してはかつて存在していたということを承認したうえで、テクストの真理の存在は、<いつ><どれくらい><どのように><だれが>読んだのかに依るのである。孔子は諸々の理念のようなものだろう。ただ孔子は弟子達のどこにも存在していたが、「何?」という問いに対して定義を与えことが非常に稀だったのである。

 

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