「論語」の世界 No.4

仁斎論語で注釈を与えられている、「学」とか「天」とか「仁」とか「信」とか「忠恕」とか「鬼神」について語られるものから諸々の理念を読み取れる。孔子は諸々の理念のようなものだろう。孔子は弟子達のどこにも存在していたが、「何?」という問いにたいして同じ答えを与えることは稀だった。「真理」の近代が作り出す「論語」のステレオタイプは、それぞれの人に固有の役割があると教える秩序の書というものであるけれど、しかし、<いつ><どれくらい><どのように><だれが>ということが問題となってくるのは、政治のあり方を問う「論語」が思考と世界の間の揺れ動く関係をとらえようとしたからではないか。「論語」は「子曰く、学びて時おりこれを習、またよろこばしからずや。朋あり遠方より来たる、また楽しからずや。人知らざるをいからず、また君子ならずや。」で始まる。仁斎によると、学問というとき、それはただ文字・文章を学ぶことだけをいうのではない、先王の教えとしての礼や行為のあり方を習うことも学びである。ここで「君子」とは人間のことである。身分にかかわりなくだれでも学問をすることができる。学問を自分のものにしようとする、最も身分の低い者から語りはじめたと読めるこの画期的な視点は最後まで貫かれる。とおもって読むと、衝撃的なのは、孔子の最大の後継者(顔回)を失っときに天に向かって嘆くというその絶対的な断絶が比較的はじめの段階でいわれることである。もはや理念は存続できない、だが理念性がなければ人間はやっていけなくなるのではないかという「信の構造」が現れてくる。孔子は隠遁するとき国と時代に対等な自己の場所を作り出す。現在そのような国内亡命の場所はどこか?