「論語」の世界 No. 7

論語」の世界 No. 7

朱子は「四書五経」とくに「大学」を第一とする儒家の国家哲学的教説体系をもった。徂徠古学は「書経」を選び、この流れを受けて宣長古学は「古事記」を選んだ。「古代先王の道」(徂徠)、「神の道」(宣長)とは、天皇制のファンダメンリズム、近代の国家哲学に真っ直ぐにつながるものである。これにたいして、「最上至極宇宙第一の書」という「論語」が伊藤仁斎によって絶対的に選択されたことの意味はなにか?「事件としての仁斎学」が書かれるとしたら、それは国家的なもの(ナショナルなもの)を超えた道の探求にほかならない。「われわれはいま21世紀の「論語問題」に直面しているのではないか」。子安先生の問題提起の言葉を考えながら、講座がおわったあと構内の庭を通り門を出て更に5分ほど歩く。広いところに出ると、昨日は道端に子供が担ぐ神輿を見た。横断歩道をわたる。と、秋祭りで居酒屋はいつもより騒がしい。場をかえてややリラックスした気分で議論再開。ヨーロッパに古代ローマが残ってしまったように、アジアも古代中国が残ってしまった、と、先生が喋っている。周りの声で聞き取れなかったところもあったが大体理解した。たしかに、(仁斎と同時代の)スピノザが生きた時代は、(古代ローマをモデルとした)ハプスブルク帝国に対して周辺諸国の独立が起きた時代だったことをかんがえた。寧ろ現在の中国に対しては独立よりも自立が鍵となるというのが先生の観察である。独立は再び19世紀的・20世紀的国家を作り出すことにしかならない。それで再び同じ問題が避けられない。周辺諸国は21世紀の「論語問題」をいかに解決するのか?日本みたいな国からは中国の対抗としての安倍しか出てきてしまった。これは21世紀の「人の道」、民主主義の道ではない。中国自身が<脱>帝国化し民主化してくれないと、という声が居酒屋の喧騒のなかできこえてきた。文革50周年のセレモニーは、(「論語」を棄てていく)中国という皇帝の国家的政治哲学の文脈においてとらえられるのかもしれない。ここで21世紀の「論語問題」が隠蔽されている。しかし国家的なもの(ナショナルなもの)が日常卑近な人の道の普遍性によって読み直される、仁斎の思想革命から問い始めるしかない。21世紀の「論語問題」の解決なくしては人類はやっていけないところまで追い込まれてしまったとおもう。「最上至極宇宙第一の書」という「論語」が仁斎によって絶対的に選択されたことの意味はなにか

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