言葉と物のコンパクトな世界 No. 12 (続)

言葉と物のコンパクトな世界 No. 12 (続)

「人間の分身」では、差異と同一性の間の繰り返されるゲームとしての近代の思考について語られる。難しい言い回しである。私はフーコーを読めているとは思えない。だが文脈("王の場所")からなんとか理解すると、市民の差異としての自発性も、依拠すべきモデル("王"とか"西欧")の隷属性に常に絡みとられる。ここから究極的に脱出するために問題となってくるのは、いつ画布に人類がかかれるかというという日付けである。冒頭にこう書いてあったように。「画家はモデルから心もちさがったところにいる。モデルに一瞥をあたえているところだ。あるいは、仕上がりの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初の一筆がまだおろされていなのかもしれない。」画家自身の市民の姿が描かれているかもしれないが、まだ人類を描く最初の一筆がはじまっていないとしたら。(ヨーロッパに古代ローマが残っているようにアジアに古代中国が残ってしまったとき、この問題を解決するのは市民と共に人類ではないかという思いである)

 

「なぜなら、近代の思考は、もはや<相違性>のけっして完成されることのない形成にではなく、つねに完遂されねばならない<同一者>の解明にむかう思考だからだ car elle est une pensée qui ne va plus vers la formation jamais achevée de la Différence, mais vers le dévoilement toujours à accomplir du Même...ある意味ではみずからの内部にあり、べつの意味ではみずからを構成する距離のなかで自身から引きはなされている同一性、同一的なものを隔たりという形態のもとで示す反復、それらこそ、たぶん、時間の発見が早急にもそれに帰せられている、あの近代の思考の中心にあるものにちがいない。L'identité séparée d'elle-même dans une distance qui lui est, en un sens, intérieure, mais en un autre la constitue, la répétition qui donne l'identique mais dans la forme de l'éloignement sont sans doute au cœur de cette pensée moderne à laquelle on prêt hâtivement la découverte du temps.」